「イエスに従う旅」ルカ19:28-40 中村吉基

詩編118:19–29;ルカによる福音書19:28-40

今日私たちはイエス・キリストの最後の一週間の歩みをたどる受難週を迎えました。そして今日の日曜日はとりわけ主イエスのエルサレム入城を記念する〈棕梠の主日〉と呼ばれる日です。

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた(28)。

エリコの町から主イエス一行がエルサレムに「上って」来たと言います。首都エルサレムに上ってきたということですが、エルサレムは標高800メートル小さな山の上に造られた街ですから「上って」来たというのは文字通りのことでした。反対にエリコは世界最古の町であり、海抜はマイナス250メートルですから主イエスたちは1日の間に1000メートルほどの道のりを「上って」きたのです!

そしてようやくエルサレムの街が近づいてきました。

弟子たちは、いよいよここで、イエスによる革命が起こされるのか、あるいはローマ帝国の軍隊との衝突が起きるのではないか、気を揉んでいたと推測できます。

しかし、主イエスはこのように2人の弟子たちに仰せになりました。30節です。「向こうの村に行って、まだ誰も乗ったことのない子どものろばを引いて来なさい」。そして、もし誰かにとがめられたらば「主がお入り用なのです」と言いなさいとも命じるのです。これを正確に訳すと「ろばの持ち主が使う」という言葉になります。不思議なことです。主イエスの必要に応じて、ろばを提供してくれる人がエルサレム近郊の見知らぬ村にもいたということを示しています。そしてまだ誰も乗ったことのないろばとは、まだくびきを負ったことがない、無傷の家畜は特別な祭りのために用いられると旧約聖書に書かれています。また同じ旧約聖書のゼカリヤ書では、子ろばに乗ったエルサレムの王への歓迎を伝える記述があります。これに同じエルサレムに入られる主イエスをメシアとして重ね合わせて見ていることを示しています。

この聖書の記事を「イエス・キリストのエルサレム入城」の記事と呼びますが、これも主イエスに王の姿を重ね合わせたものであると言えます。しかし、どこかの国の権力者が白い馬にまたがって勇姿を誇らしげにしているのとは違って、主イエスはろばにまたがるのです。しかも小さな子どものろばです。おとなが乗るのにはあまりに小さいろばです。これがいったい王にふさわしい姿なのだろうかと私たちは疑問に思いはしないでしょうか。今日の礼拝は冒頭にゼカリヤ書9:9に導かれて始められましたが、ここでも王がろばに乗るのは慎ましい姿であると告げています。しかし、主イエスはあえて小さなろばに乗ってエルサレムにお入りになったのです。決してお世辞にも勇姿を誇るとはいえませんが、低みに立つ主イエスの姿をみるのです。いや、主イエスはすでに低い姿で存在されていたのでしょう。本当の指導者、リーダーというのは人に仕えるものなのだということを、身をもって示しているのです。主イエスはよく弟子たちに話しました。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)。人に仕えるためにはできるだけ低くならなければなりません。

しかもろばは、柔和な性格を持つ動物です。聖書の教える柔和とは優しさや物腰が柔らかいというだけではありません。それはまた貧しさや欠けているものを意味します。貧しさや欠乏の中でひたすら神の救いを待ち望むのです。

いったい何をするために主イエスはろばを必要とされているのか、この時、2人の弟子たちには判らなかったことでしょう。けれども、主イエスの言葉はこれから何が起こるのかすべてご存知であったような確信に満ちた言葉でした。おそらく主イエスの仰せになる「向こうの村」に行けば、きっと主イエスの信奉者がいたのでしょう。そこに行ってろばを調達してきなさい、と言われたのです。

しかし、王様が「子ろば」に乗っておいでになるとは、人々の心情からすれば、ちょっと期待はずれなのではないでしょうか。王であるなら白馬にまたがって颯爽と登場しても良いのではないかと皆さんも思われないでしょうか。しかも弟子たちが連れてきたのは荷物を運ぶ手助けをする子どものろばでした。一方馬はイスラエルでは戦争のため、軍隊のために用いられていました。いわば〈権力のしるし〉ともいえるでしょう。しかし、主イエスは馬に乗ってではなく、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。これは王であるキリストは武力を思いのままにする指導者ではないということを表すものでした。キリストは見える権力を手にされるのではなく、また人々に威圧感を与えるような様相でもなく、「優しく、穏やかな」指導者でした。立派な服を着ているわけでもなく、高級車に乗ってくるわけでもなく、貧しく質素なお姿で主イエスはエルサレム入城をされたのです。

子ろばは主イエスをお乗お乗せした、とあります。まだ一人前に仕事ができるかどうかわからないろばです。このろばにとっても「青天の霹靂」だったかもしれません。つながれていたろばが鎖から放たれて主イエスの前に立っているこの姿に、私たちの姿を重ね合わせてみることができます。私たちは普段の忙しさや自分の罪深さ、いろいろなしがらみに足を掬われて鎖につながれたような状態になっているといえます。いろいろなものに取り巻かれすぎてしまい、自由に歩くことさえできない私たちです。けれども、主イエスの一言によってこのろばが自由になったように、私たちも解放されたのです! ここにいる皆さんお一人お一人も「主がお入り用なのです」。皆さんの一人ひとりの名前を呼んで、主イエスは「あなたは私にとって必要な人なのだ」と言ってくださいます。

小さな子どものろばに向かって「主がお入用なのです」と弟子たちに言わせた主イエス。私たちも神の目から見たら、何の役にも立たない者たちかもしれません。小さく、弱い人間です子どものろばのような人間です。そしていつも失敗ばかりしてしまう者です。 

けれどもそういう破れかぶれのような私たちでさえも「主がお入り用」なのです。聖書の中には私たちが信じられないような事柄や価値観が出て来ます。カール・バルトの言葉で、「神は神の方法で成し遂げられる」お方だというのです。神学者というのは私たちが考えもしないような表現をするものですが、なぜ神が私たちのことを必要とするのか分からなくても、神のほうには神のご事情があるというか、なんらかの理由があるというのです。

そのことを今日の箇所ははっきりと私たちに示しています。 

私たちはイエス・キリストのことを既に知っています。主イエスの方も皆さんお一人のことを知っています。天地の造り主である神に結びつけてくださったのは、主イエスです。よくキリスト教の学校の入学式で読まれる聖書の言葉がありますけれども、ヨハネによる福音書15章16節ですが、「あなたがたがわたし(主イエス)を選んだのではない。わたし(主イエス)があなたがたを選んだ。」

私たちが教会に来て、聖書を読んで、能動的に主イエスのことを知ったと思うかもしれませんが、実は主イエスの側からが私たちを選んでくださったから、私たちは神の救いに入れられたのです。 

今日の箇所の冒頭、28節のところで主イエスが「先に立って進み」、一行はエルサレムへと上っていきます。この記事は多少の言葉の違いがありますが、4つの福音書にも記されているエピソードです。しかし、主イエスが先に立って進むというのは、実はこのルカによる福音書の記事にしか記されていないのです。主イエスが私たちの「先に立って進まれる」お方であるのです。

古来よりキリスト者(クリスチャン)の信仰生活は〈旅〉になぞらえられてきました。私たちはこれからも旅を続けて行きます。私たちは一人ではありません。主イエスが私たちの旅を「先に立って進んで」くださいます。当然旅には仲間がいます。世界中のキリスト者たちです。世界には約23億のキリスト者がいるといわれていますが。皆さんはこの中のお一人です。一緒に旅する仲間です。

けれども大切なことは先導してくださる主イエスを見失わないということです。先頭の主イエスを見ないで、横ばかり、よそ見ばかりしていると軋轢が生じるのです。

小さなろばに乗った主イエスが先立って私たちの旅路を導いてくださいます。主イエスを決して見失うことなく、信仰の旅を続けて行きましょう! これから主イエスのご受難の一週間が始まります。私たちも主の十字架の道を辿りつつ、来週はその向こうにある主の復活をともに喜び合いましょう。