「あなたは誰ですか?」ヨハネ10:27-30 中村吉基

詩編23;ヨハネによる福音書10:27-30

「お前はそれでもクリスチャンか?」

以前のことになりますが、私は度々(ノンクリスチャンの)両親からと言われたことがありました。また、高校時代の英語の授業で、「だからああいう人を口先だけのクリスチャンと言うのだ」という構文がたまたま私のところに順番が回って来て訳すことになりました。当時すでに洗礼を受けておりましたし、クラスメートも教師も私が教会に行っているのを知っておりましたので、少々ばつが悪かったものです。

洗礼を受けて何十年も経つのに、私は未だにこう言われることがあります。ある時は家族の中から、またある時は友人から、キリスト者(クリスチャン)の人は誰でもこういう経験を持っておられるかもしれません。しかし、それが自分の持つ人間的な弱さだったり、人格的な欠点であるとすれば何も気にする必要はありません。それは何も、聖書や主イエスが語る本質的な事柄ではないからです。私たちは人として完全であったから洗礼の恵みに与(あずか)ったのではないのです。

今日の聖書にも出てくる「キリストの羊」になるにはパーフェクトであることは要求されていないのです。もしも私たちが「あなたはホントに? 本当にクリスチャンですか?」と人に聞かれれば「はい、それでも私はクリスチャンです。こんな私でもイエスさまはご自分の羊としてくださったのです」と堂々と答えればよいのです。

私たちはからだの成長は止まったかもしれません。しかし、私たちの内面、魂、霊的な成長は一生していきます。もし私たちに変えられなくてはならない部分があったとすれば、内面の成長の過程において、変えられていけばよいのです。

「ラインホールド・ニーバーの祈り」「セレニティ(静謐)の祈り」と呼ばれる祈りをご存知の方もいらっしゃると思います。それはとても短いこのような祈りです。

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
(大木英夫訳)

問題なのはその人の言葉が本質的なものを指していたならば、その言葉を心にしっかりと重く受け止めなくてはならないでしょう。つまり、「あなたは主イエスの言葉に、心を開いて聞こうとはしていないじゃないか」あるいは「主イエスに従っていこうとしているのだろうか」「あなたはどんどんイエスさまから離れていってしまっているのじゃないか」―――こういう意味を込めて「あなたは本当にクリスチャンなのか?」と問われたならば、これは危険信号です。大いにこのことを考え、そして悔い改める(方向転換する)必要があります。

さて今日の聖書に耳を傾けましょう。

冒頭から

「わたし(イエス)の羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼ら(人間)を知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない(27節)。

私たちのことを動物の「羊」にたとえるのは合点がいかないと思われる方もいるのではないでしょうか。主イエスのお話の仕方というのはとても現実に即した仕方でなされていました。ガリラヤという田園地帯で羊飼いと羊の関係は誰にでもよくわかる話でした。羊というのはたいへん依存的な動物なのだそうです。視野が狭く、自分の鼻先しか目に入らないので、常に群れをなし、また誘導してくれる羊飼いがいないことには危険な場所に入り込んでしまい、ほかの動物の餌食になってしまうのだそうです。

私はこの話を本で読んでいて、どことなく私たち人間に似ているところをもっているのではないかと思いました。私たちの周囲にはいろいろな人がいて、決して群れをなしている人々だけではないのですが、弱さを抱えている私たちも時に迷い、傷つき、疲れ果てて助けを求めています。イエス・キリストは私たち一人ひとりを滅んでいくことから救い出し、永遠の憩うことのできる「神の国」に導いてくださいます。もし私たちが羊飼いイエス・キリストの羊であるならば、羊飼いは羊である私たちを全力で守ってくださるのです。主イエスは、御自分についてくる羊に、永遠のいのちを与えてくださると言うのです。それは何によっても失われることのないいのちです。それは死の力によってさえも奪われることのないいのちです。それゆえ、主は「彼らは決して滅びない」と言われるのです。それはどんな試練にも、どんな誘惑からも、どんな悪の力によっても、それに屈しないということを意味します。死でさえも、イエス・キリストのもとからその羊を奪うことはできません。このことが私たちにとって「よきおとずれ(福音)」そのものなのです。

そして29節から「わたし(イエス)の父(神)がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである」。この神と主イエスが一つであるということが、今日の箇所の重要なポイントです。神と主イエスが一つでなければ、私たちはいくら主イエスに従っても永遠のいのちをいただくことができないのです。もちろん主イエスと神はそれぞれ別の格を持っています。しかしこの両者は真実の愛をもって一つとなっておられます。真実の愛は互いに通じ合い、互いのいのちが交流し合います。それは、たとえば私たちも二人の別々の人が互いに愛し合い、その愛をもって一つとなっていくさまに似ています。神と主イエスは完全な愛をもって一致しておられます。

主イエスは私たちを幸せに生きるように守り導いてくださいます。それは羊飼いが羊の群れを、危険のはびこる中でいのちをかけて守り育てる姿に似ています。羊たちは羊飼いの声を聞き分け、その声に従っていきます。それと同じように私たちも毎日の生活の中で主イエスの声を聞き分けることができるようになりたいものです。では主の声を聞き分けるにはどうしたらよいのでしょうか? 確実に言えるひとつのことは、私たちのすぐ近くにいる人々の声を聴くということです。主イエスはさまざまな人との出会いを通して、私たちに語りかけ、歩むべき道を示してくださいます。

これは以前にもお話ししましたが、アメリカの教会が出した子ども向けの信仰の手ほどきの本(教理問答)の最初のページを開いたときの感激を私は忘れることができません。

それにはこう書かれてあります。

問1 あなたは誰ですか
答え わたしは神の子どもです

私たちも、また私たちと出会うすべての人が主イエスに属し、神の子どもなのです。まさに、今日読まれた箇所において主イエスが約束してくださっているのは、このことなのです。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」そして「だれも父の手から奪うことはできない。」私たちはただこの方の声に耳を傾け、この方に信頼してついていけばよいのです。そうです、キリストの羊とは、イエス・キリストの声に耳を傾け、イエス・キリストを遣わされた神の子、救い主として信じ、この方に信頼してついていく者のことです。私たちは普段の生活の中で自分自身のことさえどうすることもできないような者です。しかし、安心していいのです。主イエスがこう言われるからです。

わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない

と。主イエスについていくことを妨げるのは人間の弱さではありません。むしろ、「強さ」なのです。「羊飼いなんかいなくたってやっていける」「羊飼いなどいらない」と思ってしまう「自信過剰」です。あるいは、自分だけの幸せを求めて願い事を突きつけて真実の神の声を聞こうとしない「傲慢さ」です。どうぞそのことを心に留めて新しい1週間をここから歩み出しましょう。