2011.12.18

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「馬小屋に訪れた喜び」

村椿 嘉信

詩編138,6-8; ルカによる福音書2,1-14

 ルカによる福音書は、ヨセフとマリアとがベツレヘムに滞在していた時にイエスが生まれ、イエスは生まれるとすぐに飼い葉桶の中に寝かせられたと伝えています。イエスが家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かせられたということは、イエスが貧しい家庭に生まれたということを意味します。イエスは決してエルサレムの祭司の家に生まれたのでも、あるいはヘロデのいる宮殿で生まれたのでもありませんでした。

 ルカによる福音書の著者は、救い主あるいは神の子と言われるようになる偉大な人物が、貧しく、当時の社会からは見捨てられた人たちの中に生まれ、そしてやがて華々しい人生を歩んだというようにとらえたのでしょうか。この出発点を読む限りでは、ここにいわゆるシンデレラ物語、サクセスストーリーを描こうとしたと考えることもできます。

 しかしイエスの生涯を知る者は、イエスの歩みが決して成功物語と呼べるようなものではなかったことを知っていたはずです。イエスを信仰の対象者とするキリスト者はともかく、一般にはイエスは「十字架に掛けられてむごたらしい死を迎えた者」として理解されていました。キリスト者もそのこと自体は否定はしませんでした。

 ルカはイエスの生まれた時代に関心を持ち、イエスの歩みの最後を知ったうえで、イエスがいつ、どこで生まれたのかを探ろうとしたのだ、と考えることができます。そして何らかの言い伝えを聞いて、それを整理してイエス誕生物語としてここに置いたのだと推察できます。従ってここに描かれていることは、厳密な意味でイエスが生まれたその時の状況ということではないかもしれません。ここに描かれていることには、イエスを受け入れ、イエスの生涯が自分たちにとって何を意味するのかということを考えた初代教会の人たち、イエスの伝承を担った人たちの時代認識が反映されていると考えられます。

 イエスが生まれたのは、この誕生物語を言い伝えたその当時の人々にとっては、決して大昔のことではありませんでした。ローマ帝国の支配は依然として続いていましたし、ナザレでもベツレヘムでも、あるいはローマ帝国の属国となっているあらゆる地域においても、大国の支配のもとで貧しい人々が苦しめられ、見捨てられているという状況にありました。生まれたばかりの子どもを飼い葉桶の中に寝かせなければならないという状況は、ルカの時代においても決して珍しいことではなかったのです。そういう時代のただ中にイエスは生まれ、そして飼い葉桶の中に寝かせられたのだと、この物語は私たちに伝えています。

 ルカによる福音書2章以下の記述に従って、少し丁寧にイエスが生まれた時代の状況を考えてみたいと思います。

 ルカは第一に、人々が住民登録のために自分の生まれ故郷に帰らなければならなかった時に、イエスが生まれたと伝えています。皇帝アウグストゥスは、なぜ全領土の住民に登録をせよとの勅令を出したのでしょうか。このことが事実であったのかという事については議論がありますが、象徴的に描かれていると理解することはできます。登録をせよという勅令を皇帝が出すということは、決して住民一人ひとりの命や生活、暮らしを保証する目的で、皇帝として住民の実態を把握する必要があったということではありません。事実は全く逆であったのです。皇帝は全住民を支配し、例外なく重税を課し、それで経済活動を円滑に行おうと考え、また国家権力によって住民を強制的に動員し、軍人ないしは労働者として働かせるために、登録ということが必要であったのであります。皇帝は、住民を自分の所有物として思いのままに利用するために、登録を要求したのです。ヨセフと身重になっていたマリアは、その皇帝の一声で住民登録をしなければならず、ユダのベツレヘムへ困難な旅をしなければなりませんでした。皇帝の一存で右往左往しなければならなかったのがその当時の貧しい人たちの実態でした。

 ルカは第二に、宿屋にはヨセフとマリアの泊まれる場所がなく、それ以外の場所でイエスが生まれ、そしてマリアは生まれるとすぐに、イエスを飼い葉桶の中に寝かせたと伝えています。出産はかなりの出血を伴うことがあり、それを嫌った古代社会の人たちが、屋敷の母屋あるいは客間を出産に使わせなかったとい背景があるのかもしれません。しかしそうであったとしても、宿屋の主人が他者のことを常に考えることのできる人であれば、ヨセフやマリアをそれなりの場所に宿泊させ、そしていよいよ出産という時に、出産にふさわしい場所に案内するということもできたはずです。古代社会においては出産の場合に隣近所の人たち、特に経験のある女性たちが立ち会い、協力するというのは当然の事としてなされていたことでした。しかしそういった事については、聖書には全く触れられていません。むしろそういう事はなかったかのように読めます。聖書にはただ、宿屋には泊まる場所がなかったので、布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせたという事だけが描かれています。

 お金さえあれば、柔らかい布団と小さなベッドを用意する事もできたのかもしれません。あるいはマリアの大きなベッドの片隅に、生まれたばかりの幼子を寝かせる事もできたのかもしれません。たとえ宿屋が満杯であったとしても、生まれたばかりの幼子のために小さな部屋とベッドを貸してくれても良さそうなものです。彼らが旅人、よそ者であったからそのことを嫌ったのでしょうか。しかしヨセフはダビデの家系に属していた、そして登録するために自分の町、自分の出身地ベツレヘムへと帰って行ったと記されています。「自分の町」と書かれている以上、このベツレヘムの人たちにとってヨセフは決してよそ者ではなかったはずです。もしかするとヨセフには、ベツレヘムに帰ることができない、何らかの事情があったのでしょうか。何らかの理由でベツレヘムを飛び出し、ナザレへと逃げ隠れていたとも考えられます。しかしいずれにせよ、ここでベツレヘムの人たちは、ヨセフとマリアを見捨て、拒絶しました。

 こう考えてくると、ヨセフやマリアは、二重の意味で低くされ、見捨てられ、貧しい状態にあったのだと言えます。一つはローマ帝国の中で下層民として扱われ、まるでモノのように扱われていたという意味においてです。もう一つは出身地であったベツレヘムの人たちからも冷たく見捨てられ、拒絶されていたという意味においてです。イエスが誕生した時代は、人間がモノとして扱われる時代、そしてそのモノとして扱われる人間同士も、共に助け合う事なく、むしろ隣人の事に関心を持たず、それぞれが孤立し、自分の事ばかりを考えていた。まさにそういう時代に、イエスが生まれたのだという事を、この福音書の記事は伝えようとしています。

 たとえそのような暗い中にあったとしても、子どもの誕生は大きな喜びをもたらします。ヨセフやマリアにとっては、それは自分たちが何事かを達成したという喜びよりも、むしろ新しい命が神さまに与えられた、喜びが向こうから自分のところに訪れてくれたという喜びであったと思われます。幼子イエスがもたらす喜びというのは、まさにそのように、「天から与えられる」喜びです。

 もはやヨセフやマリアにとって、それまでの苦しい生活も、また困難な中でなされたベツレヘムへの旅も、宿屋の主人や村人たちの冷たい対応も、そういったものはどうでも良いことになったのだと思います。幼子が生まれたということ、そのこと自体が大きな喜びであって、その喜びの前に様々な苦しみや悲しみはすべて吹き飛んでしまいました。ローマ皇帝が何を命じようと、何をたくらもうと、それはもはやどうでもよい事でした。村人も、ローマ皇帝も、マリアとヨセフからこの喜びを取り去る事はできなかったのです。

 子どもが与えられる喜びというものは、まさに天から与えられる喜びです。天使たちは大空でその喜びを声高らかに表現しました。イエスが誕生したときにその喜びを真っ先に大きな声で高らかに賛美したのは天使たちの存在でした。そしてその天使の一人が、ベツレヘムの近くで野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、イエスの誕生を伝えたと記されています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2章11節-12節

 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける ― これが主メシアなのだ、イエスの誕生なのだという事を、天使は羊飼いたちに伝えました。神さまが働かれる時に、神さまの力が及ぶときに、たとえ地上のみすぼらしい飼い葉桶であったとしても、それが光り輝く場所となります。神さまの御心にかなった事が行われるときに、飼い葉桶に寝かされた幼子は、喜びの源泉、輝きの根拠となったのであります。

 その後イエスは成長し、神の国の福音を宣べ伝える者となりました。ただ語り教えるというだけでなく、自らその福音に生きました。神さまを信頼し神のもとに歩み通されました。神さまの愛を受け、そして自らも愛を行う者となって、歩み通されました。そしてその結果、苦難の道を歩まれ、十字架に掛けられる事になりました。そのすべての歩みにおいて、イエスは神さまを信頼し、神さまの力に生き続けたと言えます。そして、その神さまの力を生き続ける、そこに喜びがあるのだという事を私たちに示してくださいました。イエスは苦難の道においても、常に喜びつつ歩みました。苦難の道を歩んだのは、それは人々と共に歩むために、そして人間と共に生活をするためでした。それがイエスの道でした。その行く先々で、イエスは確かに苦難を経験しましたけれども、でもその苦難のただ中で神と共に生きる喜び、そして多くの人たちと愛をもって交わりを築き、そして様々の出会いを引き起こすそういう喜びを味わいつづけました。それはまさにベツレヘムで飼い葉桶の中にいたときに天使が伝えた喜びと同じ喜びであったと言えます。

 ところで私たちは注意しなければならない事が一つあります。それは幼子が飼い葉桶の中に寝かされるというそのこと自体は、決して喜んでいい事ではないということです。クリスマスの光景が牧歌的に描かれたり、カードになったり絵本になったりするときに、飼い葉桶の中に生まれたばかりの幼子が寝かされている、それがとても美しい光景のように描かれていますけれども、それは決して望ましい光景ではありません。現代のこの世界においても、生まれたばかりの幼子が、ミルクが飲めない状況や不衛生な状況に置かれているという現実があります。幼児死亡率が高い状況の中で生まれてくる子どもたちがいます。 "幼子が飼い葉桶の中に寝かされる" のと同じような光景が、今も繰り広げられているということを、私たちは覚える必要があります。日本のように裕福な社会の中にあっても、親が子どもの育児を放棄してしまうというような状況があります。子どもたちが悲惨な状況に置かれているということは、かつても今もそんなに大きく変わっていないと言えるのかもしれません。そういう状況に子どもが置かれているとしたら、私たちは決して黙っているべきではないと思います。声を上げるべきです。もっともっと援助の手をさしのべるために、いろいろな工夫をすべきです。また、今貧富の格差がますます広がりつつあると言われていますけれども、それをどうにかして阻止するために私たちは行動を起こすべきです。

 幼子が飼い葉桶の中に寝かされるという事態そのものは、決して喜んでよいことではありません。しかしここでまず示されているのは、神さまの力が働くところでは、たとえ私たちが "飼い葉桶の中に置かれていた" としてもそこで喜びを見いだす事ができるという事です。幼子がたとえどんなに貧しい、どんなに人権を無視した、非常識な、あるいは非道な状況に置かれたとしても、子どもが生まれるという事は神さまの祝福であるという事です。そしてそこで神さまの御心が行われているとしたら、たとえ困難な状況にあったとしても、そこで私たちはゆるしと愛をもって共に歩む事ができるようになります。飼い葉桶の中で生まれたイエスが私たちを招いてくださるところで、私たちはお互いに受け入れあい、愛を持って生きる事ができるようになります。

 主イエスがやがて成人し、私たちに伝え、示してくれたその教えに学び、イエスに従う者となりながら、私たちは幼子イエスを飼い葉桶の中に寝かせてしまうという罪を恥じなければならないと思います。神さまが祝福してくださったという事に対しては、私たちは本当に神さまを信頼し、それでよかった、と言うことができます。でも、その神さまの祝福があるにもかかわらず、子どもをそういった場所に追いやってしまう社会のあり方、私たち自身の問題について、私たちはそれを恥じなければなりません。そしてその罪を神さまに赦してもらい、二度と "幼子を飼い葉桶の中に寝かせる" ような事をしないように努力すべきであります。飼い葉桶の中にあっても神さまの喜びはそこに到達する、そこに神さまの喜びが示されるのだという事を覚えつつ、しかし、幼子が一人として飼い葉桶の中に寝かされるような事態にならないように、私たちは歩んでいかなければならないのです。そういう歩みこそ、まさにイエスが述べ伝えた、神の国の福音に生きる、愛を持って共に生きる歩みなのです。

 イエスが飼い葉桶の中に生まれた、その状況を、本当はそれで最後にしなければならなかった。イエスはその後活動して神の国の福音を述べ伝えた、その福音を聞いた私たちは、幼子を飼い葉桶の中寝かせるような事態を最後にしなければならなかったのに、二千年経った今もそういった状況が続いている、そのことを覚えて、神さまに感謝すると同時に、貧しい人たちがさらに困難な状況に追いやられる、そういった悲惨な光景が二度と繰り返されないように努力をしていく、それが私たちがこのクリスマスを覚える事の意味であろうと思います。

 クリスマスの喜びを共に喜ぶ者となりましょう。そしてなおかつ、そういった喜びの中に本当に心から喜べない、あるいは困難な状況の中にいまだに置かれている人たちがいるという事を覚えながら、イエス・キリストの宣べ伝えた福音が本当にこの世の隅々まで広がり、神さまの御心がこの世界のあらゆるところで行われるように、そのことを願いながらこのクリスマスを迎えたいと思います。その喜びを私たちは聖書に学びながら、その喜びの輪をさらに広げていきたいと思います。

※ このテキストは村椿牧師の自筆によるものではなく、後日録音から起こしたものです。

 

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