2012.11.4

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「カイン・コンプレックスからの救い」

陶山 義雄

創世記4,1-16 ; ヨハネの手紙一3.9-18

 創世記4章の初めから16節にかけて記されている物語は大変良く知られています。ジョン・スタインベックが『エデンの東』と言う小説を書き、それが1960年代に映画化され、同じ題で上映されたのはご存知の通りです。中でも、カインの役〜とは言っても小説ではキャルという名前に代えられたカイン役を演じたのがジェームス・デイーンで、彗星のように現われ、あっと言う間に世を去った美青年であったために、更にこの作品を有名にしてくれました。もっとも、この小説や映画を知っているのは私たちの世代でして、今の若い人たちは殆ど知りません。大学で聖書を講じながら、そのことが良く分りました。ビデオ・テープやDVDでこの映画を観ることができると紹介し、聖書の物語の補助教材として鑑賞を勧めますと、かなりの青年が観てくれました。中にはレンタルでは物足りず、自分で購入した学生もいた程です。私自身も、この作品に感動してスタインベックの郷里であるカリフォル二アの南部、サリーナスの町と盆地を訪ねた程でした。スタインベックが語っていた通り、サリーナスはエデンに相応しい、温暖な気候で、オレンジやイチゴ、果物、野菜などが何時でも獲れるような所でした。スタインベックが暮らした家は今では記念館になっていて、『怒りの葡萄』など、彼の作品原稿を含めて遺品が展示されておりました。確か、同じ通りの向かい側に、サリーナス・プレスビテーリアン・教会があり、私が訪ねた1982年には、賀川豊彦先生の娘さん・籾井牧師がこの日系アメリカ人教会で牧師をしておられました。

 現在、私は大学の生涯学習センターで社会人にも聖書を講じておりますが、中高年ですとさすがに、スタインベックも、「エデンの東」も良く知っているのですが、今度は、この物語が聖書に由来してることをご存知ない方が大勢おられることを知って驚いています。

 聖書の方は僅か16節の短い物語なのですが、実に含蓄のある内容に驚かされます。読む人の目によって、様々な受け止め方がなされるのですが、誰もが発する共通の疑問に解説者は晒されます。それは、弟殺しは良くないとしても、「何故、主なる神はカインの捧げ者を受理しないで、アベルの捧げ者は受理なさったのか。」そもそも、殺害の原因を作ったのは主なる神の側にあるのではないか」と言う疑問です。これに答えなければならないことが良く起こります。皆さんはどう、お答え下さるでしょうか。私たちが自分の意見を述べる前に、聖書が答えてくれています。

 まず、ヘブライ人への手紙11章4節にこう記されています:

「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」

 この説明によりますと、カインより優れた献げ物をアベルは神に献げた、と言っています。創世記4章3節で、カインが献上したものは「土の実り」でした。恐らく、穀物の収穫物、この地方であれば小麦、大麦の類であったと思われます。それに対してアベルは「羊の群れの中から肥えた初子を持ってきて」神に献上しています。どうして、アベルの捧げた羊の方が優れていたのでしょうか。スタイベックの小説ではサムエルという村の長老にこれを説明させています:

「わたしはこの物語が牧畜をしている国民によって書かれたもので、またそうした国民のために書かれたものだ、ということを思い出すんですよ。遊牧民の神なら、大麦の束よりも太った羊の方を一層貴重なものだと考えるではありませんか。」

 加えて、ヘブライ人への手紙では、アベルが信仰をもって捧げたことを重視しているのですが、このことは、創世記の物語では何処にも記されていないことをサムエルは指摘しています。それでは、「信仰によってアベルはカインより優れた献げ物を神に献上した」というへブル書の解説は何処から来ているのでしょうか。一つの理解は知恵文学から来ています。知恵の書では、アベルの後に登場するエノクについて言及していますが、それは、創世記4章へブル書11章を結びつけています:創世記4章17,18節で、エノクは「敬虔な人で、神と共に歩み」と記されています。また、へブル書11章5節では「死を経験しないよう天に移された」として、その敬虔な姿と信仰が讃えられています。これは旧約外典・ソロモンの知恵(の書)10章3節で、アベルも死を経験しないですむ聖人扱いされているので、ユダヤ人の間でそのように評価されていたことが、物語に織り込まれたものと思われます。言い換えれば、アベルが信仰深い人であったというのは、この物語とは別に流布していた所であると言うことです。しかし、これでは、カインは最初から差別されていた、と捉えられても仕方ありません。そこで、聖書の解説者のなかには、何とかして物語の中に、アベルがカインと比べて捧げる姿勢に信仰心の違いが現われている所はないか、懸命に捜した結果、アベルは群れの中から「肥えた初子を持ってきた」のに反して、カインはただ「地の産物」だけであったと言うこと。もし、カインが地の産物で、アベルと同じように、極上品を選り分けて献上したとすれば、そこに、誠意のこもった、信仰心をもった捧げ方ができていなかった、と言う見解です。

 実に、苦しい読み込みが必要になって来ます。スタインベックはむしろ、捧げ者そのものの中に、カインの側には受理されない世の悪を見ています。アベルの牧畜業とカインの農業では豊かさの度合いも、また、力の優劣も火を見るより明らかです。世の中は、弱肉強食で、空きあらば強者が弱者を何時でも餌食にして征服する、これが進歩と名付けられた、経済発展の歴史でした。そこには戦争が絶えず繰り返されて来ました。人類の文化や経済の発展はこうした戦争によって成し遂げられてきたと言っても過言ではありません。だから、主なる神は、弱者の側、滅び行くアベルの側を配慮して、彼の捧げ者を受理した, これが、スタインベックの実に卓越した見解です。

 ここで彼の小説の粗筋を振り返る時間的余裕はありませんが、カインこと、キャルが神こと父親のアダムに向けて誕生日のプレゼントとして父親に贈った品物が拒否されたくだりについてだけ触れておきます。キャルは第一次世界大戦が始まったので、村の悪仲間から伝え聞いた、戦争で儲かる農作物の栽培をはじめます。それは軍隊が買い上げてくれる「レンズ・豆(ネヴィー・ビーンズ)」でした。彼はお金と土地まで借りて軍隊用の食料増産に励んだのです。更に、加えて穀物市場にも出入りして、儲けた農作物を更に先物取引に手をだして、まだ、値上がりのしていない豆を買い叩いて、豆が高騰した時に手放して大金を手にします。父親に贈ろうとした誕生日のプレゼントとは、正に儲けた札束の包みであったのです。事情を知った神ならぬ父親は受け取れない理由をこう述べています:

 「お前は戦争で儲けたと言うのか。そのようなものを私は受け取れない。多くの若者が戦場で命を落し、ある者は手足を無くしたり、障害者になって帰ってきているのに、お前は戦争で儲けたと言うのか。そのようなものを、わたしは受け取れない。」拒絶の理由は実に明解です。創世記4章の物語の中に、戦争を読み取って、それを現代の物語に織り込んでいるスタインベックの小説は実に素晴らしいと言う他はありません。しかし、「牧畜」と「農耕」から経済戦争を読み解くことは、先の信仰心の有無と同じように、深読みをし過ぎてはいないでしょうか。スタインベックは経済の発展史に照らし合わせると、アベル(こと、アーロン)が兄であり、カイン(こと、キャル)が弟である方が、歴史の発展史から見ると正当であると判断し、聖書の兄と弟をそのように変えてまでいるのです。聖書で言えば、アベルが兄であり、カインが弟になるわけです。ちなみに、人類の経済発展史を辿ると、採集→狩猟→牧畜→農耕→大土地所有制→荘園経済→商業経済→産業経済→金融経済と進んで来る中で、経済活動の曙の時代が牧畜を営むアベルと、農耕を営むカインによって描かれている、と取るのはやはり優れた見方であると思います。そして、こうした発展変化の背後には、いつも弱肉強食の戦争が絶えなかったと言う、スタインベックの警鐘も受け止めなければなりません。しかし、やはり、読み込み過ぎてはいないでしょうか。この物語では、戦争反対や非戦のメッセージを述べている訳ではないように聞こえます。

 本日、取り上げた新約聖書・ヨハネの手紙一の3章12節ではこう記されています:「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」

 確かにカインは殺人を犯したという事で、その行いは悪く、弁護の余地はないほどの悪事を働いた人です。しかし、殺人の動機が神によるアベルへの偏愛であったとしたらどうでしょう。たとい、そうであったとしても、殺人を犯してはなりません。そのことを良く弁えている筈なのに、カインを含めて、私たちも彼と同じ仲間であるかも知れません。深層心理学者のユングは、この物語から「カイン・コンプレックス」と言う言葉と、その症状が多かれ少なかれ、どの人にもあることを見抜いています。先ず、創世記4章は理由のない拒否が主題をなしています。カインの捧げ物が神によって受理されなかった理由について、聖書は一言も書いておりません。理由のない拒否。理由のない差別、理由のない不公平な扱い。それは不条理と言うべきものです。誰しもこうした処遇を受ければ怒りを発する権利をもっています。捧げ物が拒否されたことに理由のないことを、物語中の神が6節でこのように言っています:「どうして怒るのか、どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 神はカインの捧げ物に対して理由のない拒否をしたのは、カインを試すためであった、と言うことです。日常生活の中で人と自分を比べたときに、有利に扱われたり、不利に扱われたりすることは良くあることです。理由さえ分らずに、自分が損をしていると思うような体験は絶え間なく訪れます。貧しい家に生まれた人は豊かな家に生まれた人を妬むことはあっても、相手を殺害したり、財産を奪い取ったりして良いのでしょうか。カイン・コンプレックスとは他人と自分を比べて、何時も損をしていると言う、劣等感を指しています。これが犯罪の温床になるのですが、聖書の中で神がカインに諭している通り、私たちは自分を罪から守らなければなりません。

 スタインベックは心理学者ではなかったのですが、そしてまた、カイン・コンプレックスと言う言葉やその病名を知らなかったのですが、小説の中でカインによって表されている人間の弱さを的確に捉え、そのことをサムエルの口から語らせています:

 「この物語は全ての人間の物語であるからこそ、世界中で一番よく知られた物語になっているのだと私は思います。わたしは、これは人間の魂を象徴する物語だと思うのですよ」。・・・
 子供がもつことのできる一番大きな恐怖は、自分が愛されていないと言うことですし、愛を拒否されるということは、子供がひどく恐れる地獄のようなものです。わたしは、世界中のどんな人間でも、態度の差はあれ、拒否される気持ちを味わったことがあると思いますよ。そして拒否されると怒りが起こってきますし、怒りが起きると、その拒否に対する復讐としての何らかの種類の犯罪が起こってきます。そして犯罪が起きると罪が生じるのです。そしてこれが人類の物語なんですよ。わたしが思うのに、もし拒否ということを完全に無くしてしまうことができるならば、人類は今のようなものにはならないでしょう。多分、頭の狂った人間は今よりも少なくなるでしょう。きっと牢獄もたくさんはないことになるに違いありません。この物語には一さいのものが含まれているんですよ。そもそも事の始まりがここにあるのです。ある子供は自分が切望している愛を拒否されると、猫を蹴とばして、そして自分の秘密の罪をかくします。また別の子供は、金の力で人から愛されるように盗みをします。また別の子供は、金の力で世界を征服します。そして常に罪と復讐と、そしてまた重なる罪があるのです。人間はただ一つの罪ある動物なんですよ。」

 「人間はただ一つの罪ある動物なんですよ。」この言葉の重さに打ちのめされた日本の作家に有島武郎がいます。人道主義作家として名声を高めた頂点で、有島は1917年(大正6年)に『カインの末裔』を書いています。これに続く『惜しみなく愛は奪う』と、並んで、彼は人間愛の素晴らしさの裏に、個人の冷徹な利己主義を見ています。北海道の農場に雇われたカインならぬ廣岡仁右衛門は地主の豪勢な生活ぶりを見て嫉妬する。汗水流して働いても地主の懐を豊かにするだけで、自分達の側には一つも利さないことを見て、荒んだ生活に落ち込む。挙句の果てに、僅かに持っていた財産である馬を手放し、乳のみ子を亡くし、農場を解雇され、一文無しになって果てしない放浪の旅に出る。「罪と復讐と、さらに重なる罪」を負って生きる廣岡仁衛門は日本の作家が描いたカインの姿でした。また、有島自身の姿でもあったのです。親から譲り受けた財産をもって貴族のような生活をしていた有島。牧場を持ちながら不在地主となって、妻と家族に負担をかけていることに気付かず、妻を病で亡くして初めて自分の罪深さに打ちのめされています。私たちの誰もがカインの末裔として、こうした重荷を負って生きている。そこには救われ難い罪が人々を苦しめています。その原因が自分の側に責任のない格差や差別にあるとすれば、私たちは、どうしたら良いのでしょうか。

 私たちには、全ての人を公平に見てあげることは不可能なことです。親が自分の子供に対しても、公平に愛することは大変困難です。カイン・コンプレックスはここから始まります。私たちには他人と比較して、いつも自分が損をしている、と言う被害者意識が存在しています。社会的な不公平、不平等は出来うる限り正されなければなりません。しかし、全く同じ処遇をしたり、また受けたりすることは不可能です。背の高さ、容貌、生まれた家や国の格差は、先ず、受け入れる以外にありません。ここでカインに対する神の言葉が大切な意味をもって来ます:アベルと比べてお前が不当に扱われている、と思う時こそ、お前は自分を治めなければならないのだ。罪が戸口で待ち伏せて、お前を求めているが、おまえはそれを支配せねばならない。」

 これは、私たちにも大変辛く、また、重い課題です。しかし、この重い課題を私たちに先駆けて担い、共に働いておられるイエス・キリストがおられることをヨハネの手紙は証ししています。「カインのようになってはなりません。…私たちは自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。…イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。…兄弟を憎む者はみな人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」

 私たちは人を憎んだことが何度あったでしょうか。私たちはカインの末裔として拭い難い殺人者の罪を負っています。この罪の悪循環を断ち切って、愛の交わりに招き入れて下さった方をヨハネの教会は証ししています。

「イエスはこのような私たちのために命を捨てて下さいました。そのことによって私たちは愛を知りました。だから私たちも兄弟のために命を捨てる(魂を捧げる)べきです。」(3:16)

 私達にはこれまでのメッセージで十分に足りる思いがするのですが、ヨハネの教会ではこの後、具体的な忠告を教会員に与えています。それは、教会を乱している敵対者によって引き裂かれることがないように、互いに物的な困難をも分かち合い、敵対者のような口先だけの愛ではなく、実践的な相互扶助をもって愛を証しして行こうと訴えています。

「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば(腸が断ち切れるように痛まないのであれば)どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に(正しく)愛し合おう。」(3:17、18)

 スタインベックの小説「エデンの東」ではアブラという女の子が登場し、誰にでも、その人に最も必要としていることを犠牲的に仕える救世主として働いています。これぞ、イエス・キリストと思わせるほど、素晴らしい働きをしています。死の戦場に志願して別れを告げるアーロンならぬアベルに対して、父親に拒否されて自暴自棄になるキャルならぬカインに対しても、また、孤立している父親ならぬ聖書の主なる神に対して(元来、神は非の打ち所のない絶対的存在である訳ですが、この小説では父親に姿を変えているので、やはり、ケアの対象になっています。このお父さんに欠けていたのは、メサイア・コンプレックスを克服することでした:牧師室からのコラムを参照)このように、誰にでもそば近く共にいて見捨てない愛の働きこそ、アブラならぬイエス・キリストに他なりません。この小説は聖書に擬えながら、聖書が伝える、最も必要な救いを全ての人に表しているのです。

 私たちが意識的にも、また、潜在的にも抱えているカイン・コンプレックスと言う私たちの罪は、イエスが死を賭して贖って下さった十字架の愛によって癒されることを信じ、その恵みに与って、新しい命の道を共に踏み出して行きたいと祈るものであります。

 

祈祷:

私たちを死から命へと贖って下さった主イエス・キリストの父なる神:/p>

どうか、私たちをあなたの愛のうちに繋ぎとめておいて下さい。罪と汚れに満ちた私たちの心をあなたの御独り子イエス・キリストを通して洗い清めてください。また、主に倣う者として、他者の飢えを己が飢えとして見る程までこの世を愛し、必要な救いの働きを共に担って生きるものとならせてください。

 
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