2016.4.3

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「新しい命に生きる」

廣石 望

イザヤ書35,1-10; ローマの信徒への手紙6,1-11

I

 月刊誌『新潮』2016年4月号が「震災から5年。忘却に抗う」という特集を組んでいます。その中で、奥野修司さんという方が「死者と生きる――被災地の霊体験」というルポルタージュを書いておられます。その中から、宮城県南部の亘理(わたり)郡に在住の阿部茂さん(44歳)へのインタヴューの一部をご紹介します。この方は、お連れ合いと2歳に満たない次女を津波で失いました。「大切な人を喪った遺族には何年経っても復興はない」と彼は言います(p.174)。

 阿部さんは何度か、失った家族の姿を夢で見たり、声を聞いたり、瓦礫の中に思いがけず思い出の品を発見したりするという経験をしておられます。今年(2016年)正月明けの夢では「これまでと違ってはっきりとした像」の中に奥さまが現れ、こう言ったそうです。

「いまは何もしてあげられないよ」。
「でも、信頼している」。
「急がないから」「待ってる」。

 この出会いについて阿部さんは、こう言います。

 「待っている」というのは、私にとっては究極の希望です。みなさんのいう希望は、この世の希望ですよね。私の希望は、自分が死んだときに最愛の妻と娘に逢えることなんです。死んだ先でも私を待っていてくれるという妻の言葉こそ、私には本当の希望なんです。もしかすると、こういう体験がなかったら生きていけなかったかもしれません。…妻と娘は私に頑張れよと力をくれる…。(上掲p.178-179)。

 これは面白おかしいホラー・ストーリーではありませんね。日常生活の全体を突然に、かつ完全に破壊され、無力さの中に放置されるという経験をした方々にとって、こうしたことはありうると思います。

 死者との出会いについて語ることは、世間では「単なる夢」「願望充足」と片付けられる傾向にありました。しかし約1万5千人の死者、約2,500人の行方不明者という大量死のできごとをきっかけに、社会的にも語りうるものになりました。

II

 こうした体験は、新約聖書に残されているイエスの復活顕現に接した人々の証言と似ていると感じます。

 もちろん新約聖書は、それが「夢」であるとは言いません。それでも、唯一の自己証言として残されているパウロが、神は「御子を私に示した」(ガラテヤ1,16)と言うとき、原文は「私のうちに」であり、そこに内面性が関係していることを示唆します。とにかく死んだはずのイエスがかつての弟子たちに姿を見せ、語りかけ、家の壁を通り抜け、いっしょにご飯を食べたと言われています。また最古の福音書と言われるマルコ福音書では、墓を訪ねた女性たちに、天使とおぼしき若者が、「あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」という弟子たち宛ての伝言を託します(マルコ16,7)。これはイエスとの「再会」の約束であり、彼を裏切った者にとって究極の「和解」を意味するでしょう。復活信仰とは、「死んでいるイエスが私たちと共に生きている」という確信です。この信仰は、多くの被災者が「死者は私たちと共に生きている」と言うことと、深いところでつながっているに違いありません。人間とは、死者たちと共に生きる生き物なのでしょう。 それでも、イエスの復活信仰には、いくつかの点で特徴があります。3つほど申します。

III

 第一の特徴は「断絶」という要素です。

 死んだまま生きているイエスとの出会いは、どう進んでゆけばよいのか分からず戸惑っていた弟子たちを、懐かしい出会いによって励ましたというにとどまりません。むしろ彼らに、これまでの人生との深い断絶をもたらしました。今日のテキストでパウロは、「罪に死んだ私たち皆が、いかにしてなおその中で生きるというのか」(2節参照)と述べて、「罪」との関係途絶について語ります。あるいは「私たちもまた命の新しさにあって歩む」(4節参照)と述べて、キリストと出会った後の人生が一変したことを強調します。

 震災後の「死者との再会」と同様であれば、弟子たちは苦しみの末に、イエスと出会う以前の生活に何とか戻っていったでしょう。じっさい、そうした人々もいたかもしれません。しかし歴史的な事実として、イエスとの出会いは異邦人伝道を初めとする、以前には存在しなかった新しい生活様式を、そして最終的には新しい宗教を生み出しました。以前の生活に「復帰」するのではなく、むしろかつての生に対する深い「断絶」をイエスとの出会いはもたらしたのです。

IV

 第二の要素は「復活」信仰に関係します。

 近親者を失った人は「喪の作業grief work」を通り抜けると言われます。そしてそのプロセスのひとつに、「生き残った者の罪責感 survivor’s guilt」と呼ばれるものがあります。「どうして私だけ生き残ったのか」「いい人はみんな死んでしまった」という感情です。先に引いた阿部茂さんも、津波から二週間後に妻と娘の遺体が見つかったとき、「二週間もあの冷たい中に晒されていたのかと思うと、しばらく風呂に入れませんでした。自分だけ暖かいお風呂につかるなんて、妻や娘にほんとに申し訳ないと思ったのです」と言います(p.175)。私たちも亡くなった近親者について、「あんなこと言わなければよかった」「こんなこともしてあげればよかった」と、しょっちゅう後悔しています。

 こういった慚愧の思いは、「死者との運命の共同化」に導くことがあります。助けることができなかったという罪責感から、自らも疑似的に「死」の中に入ってゆくという、ある意味の「殉死」です。水に沈められて死ぬという意味合いをもつ洗礼の儀式が、「裏切りの罪」の告白を背景に、イエスとの「一体性の確認」をもたらす象徴的な「殉死」として原始キリスト教で採用されたのだろうとする学説もあります(佐藤研『はじまりのキリスト教』岩波書店、2010年、p.63)。

 死者イエスとの運命的な一体化は、今日のテキストにもはっきり現れます。

キリスト・イエスへと沈められた私たちは皆、彼の死へと沈められた(3節参照)。
私たちは、死への沈めを通して、彼と共に埋葬された(4節参照)。

 こうした、イエスの死の運命との一体化を強調する表現の背後には、パウロの個人的なキリスト体験があるかも知れません。パウロの手紙を精査すると、どうやらダマスコ途上で彼に現れたキリストは、神々しい光に包まれた天使のような姿などではなく、十字架上で惨殺されたイエスの死の姿そのものであった可能性があるのです。だから彼は、そのイエスの死に呑み込まれて、彼と一体化してしまったのです。  しかし同時に大きな違いがあります。「復活」信仰です。死者たちは夢に現れはしますが、復活したとは通常言われません。復活は、死者が夢に現れるというよりも大きなできごとです。

キリストが、父の栄光を通して、死者たちから起こされたのと同様に、私たちもまた命の新しさにあって歩む(4節参照)。 私たちがキリストと共に死んだのであれば、彼と共に生きるであろうことも私たちは信じている(8節参照)。

 要するに、かつての生き方との「断絶」は、イエスの死の運命との一体化を通して、復活の希望と合体されているのです。そのさいパウロは、イエスが生きているのは、この世ならぬ神の命だと言います。

キリストが死者たちから起こされて、もはや死なないこと、死がもはや彼を支配しないことを私たちは知っている。彼が死んだところのものを、イエスは一度切り罪に死んだ。しかし彼が生きているところのものを、イエスは神に生きている(9-10節参照)。

 「死者からの復活」とは、神が世界を新しくするという希望の思想です。イエスの復活は新しい世界が始まったこと、古き世界の終わりが始まったことを意味します。なぜ、死せるイエスとの出会いが「夢で出会う」ことを超えて、この意味での「復活」と理解されたのかは私にはまだよく分かりません。

V

 最後の、そして三つ目の特徴は「新しい生の方向定位」に関係します。

 近親者を失った人にとって、これからどう生きてゆくか、どう日常生活に復帰するかという課題は大問題です。しかしパウロにあっては、今をどう生きるかという問いが生まれる背景は、新しい世界が始まったという理解でした。どうやって以前の生活に戻るかという「復興」あるいは「復帰」を超える側面がそこにあります。

私たちが彼の死の似姿と共育ちになったなら、立ち上がりの〔似姿と共育ち〕にもなるだろう。〔なぜなら〕このことを知って〔いるのだから〕、すなわち私たちの古き人が共に杭殺刑に処せられたのは、罪の身体が無力化され、私たちがもはや罪に隷従しないようになるためであることを(5-6節参照)。

 イエスの「死の似姿」と「共育ち」になるという独特の表現は、生きている私たちのかたちをイエスの死が彩っている、新しい世界の命は、今の世界にあって、イエスの死と同じ形になることを通して生じるという理解の表現です。 そして、そのことは「私たちの古き人」の処刑、「罪の身体」の無効化を意味するとパウロは言います。震災後の「死者との共生」との最も大きな差異が、ここにあるかもしれません。近親者を喪った者には、できることなら以前の生活に戻りたいという、今はもはや叶わぬ願いを持っていますが、パウロは以前の生を「罪」と特徴づけて、これとの決別を告げるのです。

こうして君たちもまた、自分たちが罪に死んでいる者たちであり、しかしキリスト・イエスにあって神に生きている者たちであると見なしなさい(11節参照)。

 イエスの復活に照らして、「古き人」の「罪」とはいったい何でしょうか? それは根源的に新しい命の出現の前で、古くされてしまったものです。そこにはイエスを死に追いやったもの、例えば憎しみや妬み、無関心や冷淡さ、傲慢さや臆病さなどが含まれるでしょう。経済力や科学技術あるいは軍事力によって自らの繁栄を確保したい、そうすることで自然を支配し、いわゆる敵対勢力を圧倒したいという欲望も、まごうかたなき古い世界に属します。これが「罪」です。 私たちがこの罪に死ぬことを通してこそ、失われた大切な人々との真の和解と再会は始まるでしょう。そのとき私たちは、また真の意味で「神に生きる」ようになるのだと思います。


 
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