2016.8.7

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「主の光の中を歩もう」

秋葉 正二

イザヤ書2,1-5; マタイによる福音書10,34-39

 預言者イザヤは、紀元前8世紀の中頃から7世紀にかけて、南王国ユダの王のブレーンとして活躍した人物です。紀元前8世紀の終わり頃から約100年間、アッシリア帝国が古代オリエントの覇者として君臨しました。この時代のイスラエルは南北二つに分立した王国でしたが、共にこの大国の圧力をまともに受ける羽目になります。そこで、まず最初にシリア・エフライム戦争のことを頭に入れておいてください。それはシリアと北王国が反アッシリアの同盟を結び、南王国ユダに攻め入ったという戦争です。その時アッシリアは南王国救援の名目でこれに介入し、シリアと北王国を征服してしまいました。その後アッシリアは南にも触手を伸ばします。南王国のヒゼキア王はイザヤの進言に逆らってアッシリアに反抗を企てますが、結局紀元701年にはエルサレムを包囲されてしまいます。しかし降伏して多額の金銭を支払うことにより奇跡的に生き残りました。そのような王国の生死をかけた危機の時代を王のブレーンとして生きながら、イザヤは王に対して一貫して政治的判断を進言すると同時に、宗教改革をリードして、「主に信頼する他に道はない」ことを直言し続けました。

 歴史では、アッシリアの支配時代はラテン語でパックス・アッシリアカ(アッシリアの平和)と呼ばれます。ローマ帝国の支配時代がパックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれたのと同じ意味です。現代でもしばらく前まではパックス・アメリカーナだと言われました。超大国が帝国主義的な支配を強めると、一見平和が訪れたように見えるのです。しかしそうした平和は内部に支配・被支配の権力構造を抱えていて、預言者アモスが指摘したように、「貧しい者が靴一足で売られ」たり、「弱い者の頭を地のちりに踏みつけ」たりする現実がありました。大国支配時代の内実は、たとえ経済的繁栄があったとしても、不正の上に富を築いて贅沢に耽るような人々が現れ、貧富の差は拡大し、それに追従して宗教も堕落していきます。イザヤは宗教的理想論を述べたと見る向きもありますが、私はまったくそうは思いません。宗教的な主張ももちろんありますが、現実の政治的緊張関係の中で、目の前の政治的決断を王に進言したのです。私はむしろリアリストだと捉えています。

 きょうは日本基督教団の「平和聖日」ですが、平和について考えようとすれば、イザヤはアモスやホセアと並んで、避けることのできない預言者です。きょうのテキストは「万国平和の預言」と呼ばれて、ニューヨークの国連本部のロビーに記されているそうです。なぜ「万国」という言い方がされているかというと、ここでは最早ダビデ王朝もメシアさえも姿を見せないからです。イザヤは、「神さまご自身が直接仲介に立たれる」と主張するのです。その具体的な彼が幻に見た情景は、4節にはっきり書かれています。『主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない……』。諸国はそれぞれ国家主権を返上して、全権は神さまに集中されます。それによりもはやお互いに争う必要がなくなるのだ、というのです。国家主権をはるかに乗り越えて、世界平和を実現するという平和思想が、国連創設にあたって多くの人たち、国々の心を捉えたのでしょう。アモスやホセアを見ると分かる通り、預言者たちの平和への発言は、まず社会の実態を鋭く見据えて、そこに正義がないことを指摘し、それが平和を脅かしていると言明します。私は預言者の視野の広さにいつも驚かされますが、彼らは国際政治から小は孤児・寡婦の貧窮に至るまでの一切のリアリティーに言及しています。不正義を許さず正義を確立するのは神さまであり、神さまの主権の前には、超大国の権力も軍事力も相対化されるのです。

 こういう発想から私たちは多くのことを学ぶことができると思います。キリスト教の歴史を振り返りますと、平和を現実問題としてではなく、内面化された狭いものとして捉え、その結果として、現実の権力の横暴を許容してきたと思うのです。それどころかある時代には教会が国家権力と一体となって横暴の限りをつくしました。それを反省することなく次のステップに進むことなどできっこありません。私たちが預言者の平和思想に学ぶとすれば、たとえば国際平和にしてもそれを社会正義の問題、弱者と強者の問題として捉え、さらにそこから進んで、弱者の視点で発言することになるはずです。弱者が不当に扱われている現実を不正義だと思う者は、誰だって世界平和について発言する権利や責任があるのです。キリスト者が政治に関わる理由がそこにあります。

 「いと小さき者」を見つめられるイエスさまの平和についての発言の源も、私は預言者にあると考えています。きょうのテキストを読んでおりますと、イザヤの関心は神の都としてのエルサレムの浄化であることが分かります。「終わりの日に」と2節にありますから、終末的な色彩を色濃く持っていることも分かります。イザヤは終末の幻を仰ぎながら、やがてこの世に理想のメシアが現れることを待望していたのだと思います。古代のイスラエルの話ですから、それはダビデ王朝の末裔から出ると考えていたのかもしれません。このメシアは40章以下の第二イザヤの段階になりますと、よりはっきりその姿が浮き上がってきます。イザヤ書にはバビロン捕囚後の時代の加筆もありますから、民族主義的な預言も入り込んでおり、矛盾する要素もあるのですが、それでもきょうのテキストにはエルサレムの復興に関する最も普遍主義的な考え方が現れていると思います。アモスなども驚くほど国際的な視点を持ちながら諸国を眺めていますが、それでも多少民族主義的な匂いがします。ところがイザヤはその限界を一つ突き抜けています。

 きょうのテキストはミカ書4章1-3節に、ほとんど逐語的に同じ形で再録されていますが、普遍性と終末論的性格においてはだいぶ異なります。ミカ書を読むとご理解いただけると思いますが、ミカ書のメシア預言はかなり民族主義的性格が顕著です。最初にアッシリア帝国のことについて少し触れましたが、アッシリアが強大な軍事力によって当時の世界の全面的支配を確立したとき、イザヤはアッシリア帝国の従属国となった南王国の都エルサレムこそが世界の中心として「どの峰よりも高くそびえる」と言っているのです。しかも2節の終わりから3節にかけて、主の教えと御言葉を求めて、世界中の諸国、諸民族が巡礼の旅をして、流れのように集まってくる、とも言っています。3節の「主の教え」の「教え」というのは、トーラーという言葉です。トーラーは律法のことですが、ここではもっと大きな意味を込めて「主なる神さまの意志が啓示される」という意味で使われています。つまりイザヤは、神さまの啓示こそがすべての人々に歩むべき道を示すのだ、と主張しているのです。御言葉をしっかり身につけた人は、もはや戦うことを学ばず、剣を打ち直して鋤とする、と言うのです。聖書をしっかり読んでいれば、必ず平和で建設的な働きに従事するようになることがここに示されています。

 ところで、昨日は広島の被曝71年目の「原爆の日」でした。TVニュースでその様子を見ていましたら、市長がオバマ大統領の訪問に触れながら、「核兵器のない世界を追求する勇気を共有しよう」と演説をしていました。それとまったく対照的に、新聞には新しく防衛大臣に就任した稲田朋美さんが過去に「核保有を検討すべきだ」と述べていることが紹介されていました。これは新都知事の小池百合子さんにも共通することです。その点を昨日の広島での記者会見で問われた首相は、「我が国は核兵器を保有することはありえず、保有を検討することもありえない。稲田防衛大臣の発言はこのような政府の方針と矛盾するものではない」と答えています。どこをとって矛盾しないと言うのでしょうか。確かに稲田防衛相は、「将来的にどういった状況になるかということもあろうかと思うが、現時点で核保有を検討すべきではない」とも述べています。正しい日本語を解する人ならば、この言葉の中にはっきりと、「将来の核保有を否定しない」という意志が示されているのは明白です。こういう人物を防衛大臣に任命するのですから、安倍首相の本音としては、「今はしないよ」ということなのでしょう。まあ、福島が制御できない状況に陥っているにもかかわらず、次々と原発再稼働を推進する人ですから、推して知るべしです。

 終末というとすぐ私たちは「今の世」と「来るべき世」と二つに分離して考えてしまいがちですが、私は終末をそのようには捉えません。それはどういうことかと言えば、きょうのテキストで示されたイザヤの見た終末の幻を、イエス・キリストがもっとはっきりした形で私たちに提示してくれているように思うからです。イエスさまのお言葉に従えば、神さまの支配は近いけれども、将来やってくるのではなく、すでに基本的に実現しているよ、ということになります。イエスさまの理解では、神の支配・神の国は将来やってくることが完全に消えるわけではないけれども、それ以上に、すでに始まりつつあるのだ、ということなのです。

 もっと言えば、日常生活の真っ只中で神の支配は始まっています。イエスさまはマタイ福音書10章34節以下でひじょうに激しい言い回しで「平和ではなく、剣をもたらすために来た」とも言われるのですが、こういう言い方をしたのは、なかなか神の国の真理を理解しない人々に向かって、もっと自信をもってなすべきことをしっかり進めなさい、という促しではなかったかと思います。ですからここだけを取り上げて、「さあ剣を取ろう」「さあ、敵に向き合え」と短絡的に解釈するのは避けるべきです。イエスさまの教えは「敵を愛せ」であるし、「七度を70倍するほど許せ」に本質があることは全体から見て明らかですから、なぜある時イエスさまがあえてこうした言い方をされたのかを、深く掘り下げてよく考えることが大切です。要はイエス・キリストに従うことを抜きにして平和が存在するということを考えてはダメですよ、ということでしょう。もちろんイエスさまに従うとは、狭い意味でイエスさまを受け入れるかどうかに限定して考えるということではありません。十字架というのは、イエス・キリストの生き方全体に関わっているのであり、同時に私たちの生き方全体を要求していると思うのです。ですからイエスさまが激しい言葉を発するときは、その相手に生き方全体を転換しなさい、と要求されておられるのだと受けとめるべきでしょう。

 もし私たちが今から平和のために行動しようと思うなら、必然的に弱い立場の側に立つという視点を持っている必要があります。世界的な視点を持つならば、先進国がアジア・アフリカや中東の国々に国家として収奪を行ってきたことに目をつむって、戦争がない平和を望むと言ったところで、神さまは喜ばれないでしょう。弱者を切り捨てて、自分の身の安全を優先的に確保したところで平和を考えることも可能でしょうけど、それは逃げにしかならないでしょう。イエスさまは私たちに、「自分の十字架をとって私に従ってこない者は私にふさわしくない」とおっしゃるのですから、キリストを抜きに平和を考えてはダメです。私たちは自分の教会生活において、特に社会との関わりの生活の中において、すでに小さな一歩を歩みだしているということをしっかり受けとめましょう。このことを終末の理解の中で確認しておきたいと願うものです。祈ります。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる