2016.9.4

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「貧しいやもめの献金」

秋葉正二

申命記14,22-29マルコによる福音書12,41-44

 平和という言葉には「穏やかで変化がない」という意味と、「戦争がない」という意味があります。どちらの意味にとっても、2016年がとても平和であるとは言えないでしょう。連日のように殺人事件が報じられ、それも、なぜそうした犯罪が起こったのか理由がまったく分からない場合も少なくないので、一体世の中はどうなっているのだ、と首を傾げざるを得ません。戦争はシリアをはじめとしてもちろん続いています。そうした世界情勢を背景にして、日本の自衛隊も武力紛争の現場へ派遣されるのは当たり前という風潮になってしまいました。ところで、平和に関する聖書の言葉で最も有名なものに「山上の説教」の〈平和を実現する人々は、幸いである〉があります。口語訳聖書では〈平和をつくりだす人たちは、幸いである〉とありました。この「実現する」「つくりだす」という言い方には積極的な行動要請のニュアンスが色濃く反映しています。どこか平和な場所を見つけて逃れなさいとか、平和さえあればあなたたちは幸せですよ、とか単純に平和を表現しているのではないのです。「今、日本は平和ですか?」と尋ねるとすると、2,30年前ならば一様に「平和です」という返答があったと思いますが、現在ではそうもいかなくなっています。

 一億総中流社会などと言われた時代が嘘のように、生活上の経済格差は広がり、多くの若者が職を得られない状況になっています。国の借金も1千兆円を超えています。さて、きょうのテキストは場景としては明らかに神殿における献金の場面ですから、教会ではこれまでのこのテキストを、献金の意味を考えたり、献金を奨励したりする場合に用いてきました。そうした直接的な引用理解はもちろん可能ですが、必ずしもお金の問題を絡めなくてもよいような気がします。私は今回、この話を平和を考える際の価値観の問題として捉えました。強いて言えば、「富める青年」の話にも共通するものがあると思ったのです。「富める青年」の話では、「永遠の命」を得るためにはどうしたらいいかという質問に、イエスさまは「君に足りないのは、家に帰って、持っているものを全て売り払って貧しい人に施すことだ」と答えておられるわけです。このイエスさまの答えは、「今ある生き方をそのまま守るだけではダメだ、受け身でいては何も始まらない」という意味を含んでいるのではないかと思うのです。

 ですから平和ということに置き換えると、私たちがただ戦争をしないようにということだけを受け身で理解しているだけでは不十分です。永遠の命を得るために何をしたらいいですか、という問いに、「私はひたすら法律を守るようにし、戦争が起こらないように願ってきました」と答えるだけでは、イエスさまから「それでは足りない」と言われてしまうような気がします。そのことが「持ち物を全て売り払って、貧しい人たちにまず施しなさい」というお言葉につながっているのではないでしょうか。教会にはある出来上がった空気があります。聖書を読んで、熱心に礼拝を守り、祈る……そんな敬虔なクリスチャン像を想起させるような空気です。私はそれをとても大切なことだと考えていますが、しかしその中にはエアーポケットのような落とし穴があるように思えてなりません。それは例えば、平和に関することです。日本という国が世界でどのような位置に立っているのか? 社会のいろいろな課題に対してキリスト者としてどこに目を向けているのか? そういったことが思い浮かんできます。少なくとも毎週の教会生活の中で、社会的課題に自分がキリスト者として何ができるかということに対しては、あまり注意を払ってこなかったのではないかと思います。

 砧教会の時代、私は毎年東京YWCAの主催するクリスマス・ページェントに招かれて参加しました。東京YWCAで長く活動してきた女性たちが何人かおられたからです。ある年、東京YWCAの会長さんが、ご挨拶の中で、戦後の教会の歩みについて反省を表明しつつ、私たちキリスト者や教会がもっともっと平和を実現するためにやるべきことがあるのではないか、という問いかけを述べられたのが印象的でした。YWCAの歴史を振り返ったとき、教育とか女性の地位向上とかの活動がすぐ脳裏に浮かぶのですが、会長さんのご挨拶は、戦後のYWCAの活動の根底には、教会内のことだけでなく、社会の問題についても担っていこうという方向が明確にあったという点を確認されているかのようでした。そのとき、私の関係する外キ協の構成団体になってくださっている背景にはそういう方向性が関係しているのだな、と思ったものです。社会に対する意識が希薄ですと、例えば今日本の国はどういう方向を目指して進んでいるかといった問題に対して、自分なりのはっきりした分析と判断ができなくなります。国が怪しい舵取りを始めた時に、「それは違います。間違っています」と指摘しなければいけない時に、黙っていることになってしまいます。黙っていることは、結果的に同意すること、反対を唱えないことにつながっていきかねないことをよく考えなければなりません。ですから、礼拝を共に守り、聖書を読み、祈るという基本的な教会生活を土台にして、社会に対してしっかりした姿勢をとる必要があります。

 テキストに戻りますが、この箇所で最も重要なことの一つは、キリスト者としての価値観の問題提起ではないでしょうか。戦後私たちの国は、米国の影響を大きく受けて、大きなものは強い、強いものは正しい、という方向に歩んできたように思います。教会にしても、進駐軍のララ物資から始まって、物の豊かさを追いかけてきたような気がします。米国の教会の行き着いた先の一つがブッシュ大統領を支えた宗教右翼でした。その流れはトランプ大統領候補に見られるようにまだ続いています。日本のキリスト教もある面でアメリカ教会の右寄り傾向の影響を受けていると私は捉えています。だとすると、まずはその軌道修正が必要です。

 テキストでイエスさまは、宮詣での人たちの中で小さなレプトン銅貨2枚を献げた貧しい女性を指して、他の金持ちたちが一杯お金を献げているのを見ながら、「誰よりもたくさん入れた」と言われました。レプトン銅貨は最小単位のお金で、日本で言えば一円玉か五円玉でしょう。わずか2枚の小さなレプトン銅貨の価値を、イエスさまは何よりも大きいと断定されているわけです。この女性は「自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れた」とも言われています。いうなれば、それは明日のパンを買うお金も、全部献げたということでしょう。イエスさまがここで示された価値観は、他の標準によらず、自分の持てる限りをすべて捧げることをもって標準とするという判断基準です。ここが最も重要なポイントでしょう。1円よりは10円の方が大きい、一万円ならばはるかに大きい、という捉え方とはまったく違う標準をお示しになりながら、イエスさまは話をされています。

 結論を言えば、その標準こそがキリスト者が平和をつくりだす、実現する原動力なのではないかと思うのです。この標準に視座を設定しない限り、キリスト者の前進はないのではないでしょうか。けれども、その標準に生き方を改めると、実際にはいろいろなことが起こってきます。そういう視座を持たない人は離れていくでしょうし、無力感に苛まれることも生じるでしょう。しかしそういう時にこそ、平生の礼拝姿勢や聖書への取り組みや祈りが私たちを支えてくれます。持ち物をすべて捧げるような生き方をしたキリスト者の先達は、この1世紀を眺めただけでもたくさんいます。キリスト者と限定しなくても、キリスト者以上にキリスト者的に生きた人もたくさんおられます。私ならば、ボンヘッファーやパウルシュナイダーやガンジーやマルチン・ルーサー・キングを連想します。みな自分の命までも捧げてしまいました。それはまさしく持ち物をすべて捧げる生き方と言えます。私たちはとても彼らのようには生きられないと思ってしまいますが、そう断定しなくてもよいと思います。必要ならば神さまが私たちにそういう生き方をさせるのです。誰だって命を捨てたいとは思いません。しかし聖霊の働きは必要があればその人に命まで捧げる生き方を選ばせるのです。そういうことはあらかじめ私たちには分かりません。しかし普段の信仰生活の在り方が関係してくることは確かでしょう。貧しい女性がレプトン二つを捧げた裏には、彼女の信仰生活があることを見逃してはなりません。イエスさまが特別目がよくて、彼女の手の中のものがよく見えたという話ではありません。普段どういう信仰に基づいた生活をしているか、彼女を見ながらイエスさまはそれを見抜いたのです。

 当時エルサレム神殿には、婦人の庭の壁を背にして、13個のラッパ型の容器が置いてあったと言われます。日本の神社や仏閣にも賽銭箱が置かれていますが、ああしたものが形は違うけれどもたくさん並んでいたということです。13個も並べられていたのは、それに見合う人の出入りがあったのでしょう。日本でもそうですけど、たいていの人は余り考えもなしに、ポケットマネーの一部を投じる感覚でお金を献げます。日本では、お正月などは気分も高揚して、千円扎以上を献げる人が多いそうですが、百万人単位で繰り出す明治神宮や川崎太師などは1日で数億の賽銭があると聞きました。エルサレム神殿でもそれと共通するような献げ方があったのでしょう。しかしイエスさまの判断に従えば、それは本当の献げる行為にはなっていないことになります。私たちは聖餐をいただくとき、自分を神さまに聖なる供え物として捧げることを確認します。献金の精神はいわばそういうことにつながっていると思います。きょうのテキストのすぐ前にはイエスさまが律法学者を非難する記事があります。律法学者たちはこれ見よがしに長い衣をまとって歩き回り、広場では挨拶されることを求め、会堂では上席を、宴会では上座につくことを望みました。

 それだけではなく、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをするとイエスさまに指摘されています。この記事に続くようにきょうの貧しいやもめの献金の記事があるのです。マルコはおそらく意図的に二つの記事をつなげたと思います。一人の貧しいやもめの生き方が律法学者のそれと対照されているのです。言うなれば、神さまの前における人間の評価の基準をイエスさまは、お示しになったのです。献金の捧げ方一つをとってみても、イエスさまにはその人の生き方が見えるのです。私たちは一人の貧しいやもめの献金行為を通して、実にさまざまな問いかけをイエスさまから受けていると思います。

 私自身はこの献金の記事から、自分の平和をつくりだす生き方はどうなんだ、という問いを受けました。皆さんもきっといろいろな問いかけをイエスさまから受けると思います。そうした問いに誠実に応えていく人間であるためにも、平生の教会生活を大切にしたいと願っています。祈りましょう。


 
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