2016.9.18

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「万民の救い」

秋葉正二

イザヤ書52,7-10ローマの信徒への手紙10,9-17

 テキストは信仰義認がテーマです。信仰義認は「聖書のみ」「万人祭司」と並んで、宗教改革の根幹であり、プロテスタント信仰の三大原理の一つだとも言われます。ルターは宗教改革当時のカトリック教会の腐敗の原因を「善行により神は人を義(正義)とする」という行為義認だと捉えました。そうではなく、「人は信仰によってのみ義とされる」と主張したのです。その根拠として最も重要な文書を「ローマ書」に見たわけです。つまりパウロの主張をルターは積極的に取り入れたと見ることができます。もちろんカトリック教会の主張もあり、「信仰」「善行」「義認」をどう理解するかという難しい問題が対カトリックのみならず、プロテスタント諸教派間にもあることを頭に入れておく必要があります。私たちはプロテスタント教会の立場として、「人は律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」という表現をスローガンのように唱えがちですが、このことも時々立ち止まって、いろいろな面から検討してみることには大きな意味があります。例えば、「義」という言葉一つをとってみても、そこには考えるべきことがたくさんあります。義あるいは正義を、私たちは自動的に信仰義認の義として理解しがちです。しかし行為義認の義でもあるのです。義認とは、神さまが現実に義ではない私たち人間を、キリストのゆえに義と認めてくださるという意味ですから、義認は内容的には罪の赦しと考えると分かりやすいかもしれません。

 旧約聖書で義を表す代表的な箇所は創世記15章6節ですが、ここをパウロはこのローマ書の4章で引用しています。5節からのつながりがありますので、これを含めてちょっと読んでみます。『主は彼を外に連れ出して言われた。“天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい"。そして言われた。“あなたの子孫はこのようになる"。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた』。パウロはこの箇所をどういうふうに引用したかと言いますと、ローマ書の4章1節から読んでみましょう。『では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。〈アブラハムは神を信じた。それが、神の義と認められた〉とあります』。聖書では人間が常に神さまに向かい合う存在として捉えられていますから、ここで言われる義も道徳的倫理的な意味での義ではなく、神さまとの関係において考えられている義だと思われます。つまりアブラハムは主を信じたから義とされたのです。

 しかし、ルターが「藁の書簡」と呼んだヤコブ書でも同じアブラハムが引用されています。ヤコブ書2章20節以下にはこうあります。『ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。〈アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた〉という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません』。これを根拠にして、ヤコブ書はパウロの信仰義認論に対して行為義認論と言える概念を打ち出したとみられています。〈人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません〉という表現は、行いは人間の側から神さまに向かってなされる条件と理解できるので、無条件に神さまから与えられる義認を単純に受け取る「信仰」とは異なるということになります。これは「義認」というよりは、人間が自らの力で義とされる「成義」の概念です。そして「成義」を考えると、「聖化」が必要不可欠になってきます。

 「聖化」とは何かを聖なるものにするということ、あるいは聖なる状態にされた状態です。絶対的な意味では神さまだけが「聖」ですから、人間が聖なるものになることはもちろん出来ませんが、聖なる神さまに認めていただくということでしょうか。まあ、信仰義認についていろいろ述べましたが、それほど信仰義認とは単純なものではない、ということです。きょうのテキストを読んでいきましょう。内容を大きく分けると、前半後半の二つに分かれます。前半は13節までで、そこには信仰義認がすべての人間に深く関わるものであることが主張され、14節以下の後半では、イスラエルがそれを拒んでいることをそれぞれパウロは旧約聖書を引用することにより主張しています。

 旧約聖書を引用すると言っても、問題は引用の仕方によって結論の引き出し方が違ってきます。ですからこのテキストでは、あくまでもパウロの引用の仕方によって信仰義認という理解が導きだされているのだ、ということを了解しておく必要があるでしょう。9節には「口」という言葉が出てきますが、これはすぐ前の8節の申命記からの引用(30,11-14)を受けたものです。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある』とありますから、パウロの意図は、この口や心を教会の信仰告白である〈イエスは主である〉という表現や、〈神がイエスを死者の中から復活させられた〉という表現に結びつけることにあったと思います。これはパウロがよく使う手法で、旧約預言をキリストの出来事に結びつけていくやり方です。ユダヤ教からキリスト教へと改宗していく人たちがたくさんいた時代ですから、旧約聖書を引用するやり方は有効だったでしょう。異邦人の地でもシナゴーグを集会場にして伝道していったくらいですから、旧約聖書に精通していた人たちを相手にする際にはベストな方法だったかもしれません。

 おそらくその手法を利用したのはパウロだけではなかったろうと思われます。パウロが引用した申命記30章11-14節は、ユダヤ人が神の言葉がいかに身近でそれを実行することが容易だということを語る格言ですから、文脈の主語はもちろん旧約の中心である律法なのです。この律法をパウロは信仰義認に入れ替えてしまっています。冷静に考えればかなり無理なことを強引にやっている印象です。しかしパウロの願いは、恵みとして与えられる信仰義認が身近なものであることを伝えたいわけですから、自分流に自由に引用しながら主語を入れ替えて組み立て直す作業を奔放に進めてしまうのです。旧約を悪用しようというわけではないのですから、それを止める必要はなかったでしょう。11節の引用もすでに9章33節で引用したイザヤ書(28,16)の繰り返しです。目的はやはり、信仰義認の普遍性や身近さを強調するためです。「主」は旧約では「神さま」の意味ですけれども、ここでの意味はもうキリストでしょう。

 そこにはキリストであるイエスが、ユダヤ人だのギリシャ人だのといった区別を超えて、同じ神の民として自分を信じる者すべての人々の主として位置付けられていく方向性が、ハッキリ打ち出されています。それはまた、民族宗教から世界宗教への脱皮のプロセスでもあったはずです。13節もまたヨエル書(3,5)からの引用です。 旧約を引用しているのに、中身はすでにキリスト論になっています。まア、とにかくパウロという人はかなり強引に、ひらめいた結論に向かって筋道をつくってしまうのだなあ、というのが正直な私の印象です。

 『主の名を求める呼び求める者はだれでも救われる』というのですから、これはもう万民の救いを説いていると言えましょう。パウロがキリスト教で重要な人物とされている一番の理由は、私はここにあると思っています。ユダヤ人という民族からギリシャ人をはじめとする異邦人に救いの世界を一変させてしまったのです。さて、最初に申し上げた通り、14節からはユダヤ人の躓きの問題へと筋が変えられます。神さまが呼び求める者はだれでも救われるわけですが、神さま側からの救いへの呼びかけが成就するためには、まず信じることが不可欠だと14節の冒頭で述べられます。そして信じるためには聞くことが必要で、聞くためには宣べ伝えることが必要で、さらには、宣べ伝えるためには遣わされることがなければならないと、熱を帯びた主張が続けられています。やっぱりパウロはかなりしつこいな、と改めて思いました。この14,15節の言い回しは後の時代の教会の宣教論の基礎の一つになっていったのでしょう。15節の引用はやはりイザヤ書(52,7)からのものです。イザヤ書ではメシア預言として位置付けられていますが、この文脈ではパウロを含めた使徒たちの宣教活動を意味しています。イザヤにおける「よい知らせ」は、終末におけるメシア到来を期待したものでした。イスラエルの背信の歴史が終わり、神の直接支配が到来すれば、それまで悪と不義の勢力下で苦しんでいた人たちに告げられる解放の福音が、「よい知らせ」だと言ってよいでしょう。パウロはその「よい知らせ」をイエス・キリストの中に見ました。その上で福音はすべての者に開かれていると述べるのです。教会の説教の中にも宣教の意味がありますが、それは語る言葉によってなされますし、同時にその言葉を聴く人が存在します。この意味では牧師は確かに宣教という務めに遣わされています。

 でも牧師のそうした務めは宣教のほんの一端に過ぎず、遣わされる務めはイエス・キリストを信じるすべての人に与えられているはずです。ですからどうぞ宣教の業を牧師にお任せ、ということにしないでください。皆さんお一人おひとりが宣教のために遣わされている一人ひとりです。語ったり聞いたりという出来事は、普段の私たちの生活の中で出会う人との関係において起こります。私たちはイエスさまの福音を本当に自分の喜びとしているか、この喜びがなければ福音を伝えることなどできないでしょう。ですから宣教の機会は私たちの日常生活の中にあると言えます。パウロは教会のメンバーに語りかけるように、その確認をとっているかのようです。パウロにとって旧約の神さまはイエス・キリストの父なる神さまでもあったはずです。旧約聖書の神さまの言葉の近さは、今まさにキリストによって実現しているよ、とパウロは確信しています。16節でパウロは、『すべての人が福音に従ったのではありません』と言っていますが、自分を含めたユダヤ人のそうした歴史を思い起こすことは悲しいことだったでしょう。これは福音を告げる側ではなく、それを受け取る側の問題です。先ほどの言い方をすれば、派遣から信仰に至る道筋のどこかに問題が生じたということです。『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』というのは、イザヤ書53,1からの引用ですが、聞くことと信じることの間に問題があるのだ、という指摘です。「わたしたちから聞いたこと」というのは、教会の宣教内容を指しているでしょう。17節はパウロの福音理解の基本だったと思います。紀元1世紀半ばの教会の福音宣教の熱心さが現代の私たちにも伝わってきます。教会の活動というのはその程度こそいろいろあるとしても、この熱心さを失った時に停滞することがよく分かります。

私たちの教会は今年度「将来検討委員会」を発足させて将来への展望をなんとか開こうと努力していますが、その鍵を握るのは福音宣教を担う姿勢です。教会の誰かがそれをするというのではなく、「この私がするのだ」という自覚をもって前進していけば、神さまは必ず道を開いてくださいます。信仰義認の話が宣教姿勢に帰着してしまいました。何はともあれ、何とかの一つ覚えのようにスローガン化した信仰義認を唱えることだけはやめにしましょう。あまりそればかりやっていると、信仰による義を基準にして、「義人」と「罪人」を区分する中で、社会通念上のちょっと倫理から外れているような人をみんなまとめて教会から排除するようなことにもなり兼ねません。教会によっては既に性同一性障害者を締め出したりしているところもあるのですから。パウロはコリント前書6章9,10節に悪徳者一覧みたいなリストを書き残していますが、当時の時代状況を考慮するとしても、少しやり過ぎだなと私などは思います。「人を悪く言う者」「酒におぼれる者」なんて私たちも含めて周囲にたくさんいるのですから、こうなるととんでもない差別を生み出しかねません。

信仰義認と行為義認を対立的だけに捉えるのではなく、それぞれが何を一番主張しているのかを丁寧に探求していくことの方がはるかに生産的です。パウロの主張から、実にいろいろなことを考えさせられます。祈ります。


 
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