2016.10.16

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「信仰と不信仰」

秋葉正二

創世記13,5-12ヘブライ人への手紙11,1-3

 テキストは創世記の族長物語のアブラハムに関する一節です。まだ名前はアブラムですが、やがてアブラハムになります。アブラムは父テラの死後、一族を率いてカナンに入りましたが、飢饉に見舞われて一時エジプトへ移ります。しかしエジプト行きは大失敗に終わっています(12章10節以下参照)。けれども、アブラムは経済的資質に恵まれていたようで、エジプトからたくさんのお土産を持ち帰っています。ずっと甥のロトが一緒で、彼も羊や牛などの財産を築くようになっていました。いつでも一部族として分離できる状態です。つまりエジプトへ行く前とは大違いの状況になっています。そこで一つの問題が起きました。6-7節です。『その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである……』。アブラムとロトが一緒に暮らすには土地が狭かったのです。ここには、物があり余ったとき人間はどう対応するか、というテーマが提示されます。人間は、物があり余っても不足しても問題を起こしますから、厄介です。

 私たちの社会でも、バブル崩壊以前は物資が豊かであったため、肥満児が増えて困る、というようなニュースが溢れていました。それは見た目の体格が立派でも骨は弱くなった、というような肉体の問題でしたが、物が豊かになれば精神も蝕まれるという意味も含まれていたと思います。アブラムとロトの財産は所有する家畜数で表現されていますが、家畜には牧草が必要ですから、土地の広さは重要事項です。家畜を管理する牧童どうしに争いが起こった、と記されています。カナン人やペリジ人などの先住民もいたわけですから、アブラムとロトが抱えた内紛は厄介なことだったでしょう。富む人と貧しい人の問題は、イエスさまも喩え話で教えてくださっています。例えばマタイ19章の「金持ちの青年」の話の中で、『金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』 と言われています。本来富む富まないは、他人との比較の問題ですから、特別財産のない人でもまったく財産のない人から見れば「富んでいる人」でしょう。皆さんはおそらく多少の貯金やら何やらがおありでしょうから、無一文の人から見れば、私たちは「富んでいる人」です。実は、このことを忘れてはならないのです。

 パウロはフィリピ書4章で、『貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています』と言っていますが、あれは貧富によって起こるあらゆる罪に対する誘惑を排除してきた、という意味でしょう。ですからパウロはそれを自慢しているわけではありません。貧富に関わる誘惑を排除してこれまで生きてこられたのは、自分を強くしてくれるイエスさまのお陰だ、信仰が与えられて初めてそれは可能なのだ、と言っているのです。今日のテキストでは、アブラムがエジプト行きの経験を生かして、失敗したことに対しては深く反省し、これから新生活を始めようと決心して、「財産を築いて富むようになった」という状況にどう対処したかが語られています。私たちはそのアブラムの生き方に学ぼうと思うのです。

 8-9節を見ますと、アブラムは一族の長として、当然主導権を発揮できる立場にありながら、甥のロトを主とし、自らを従としています。これは大したものです。もし対等の立場であったとしても、なかなかこうは言えないと思います。アブラムの提示に対して、10-11節にはロトの行動が記されています。『ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた……』。私たちがロトの立場だったらどうでしょうか。私ならおそらくロトと同様、ヨルダン川流域のよく潤っていた低地一帯を選んだと思うのです。ああ、ロトのことを簡単に批判できないな、と思いました。事柄の本質を見抜く目といいますか、真理に対する謙虚さの問題でもあると思うのですが、見た目の良さに流されやすい人間の姿がロトを介して表現されているように思われます。

 甥を主とし、自分を従としたアブラムの行動理念は、個人対個人の問題解決にとどまらず、もっと大きな単位である民族とか国家の間でも通用するような深さをもっているように思えます。国と国の関係もこの時のアブラムのような考え方に基づいて構築していけば、双方に平和をもたらすのではないでしょうか。いや、それは甘いよ、そんな考えでいたら北方領土も尖閣もすべて失って、後でほぞを噛むよ、と言われてしまうかも知れませんが、アブラムの行動理念には平和構築の基本理念が表されているように思えるのです。ロトはそれまで大きな問題も起こさずアブラムに従ってきたかも知れませんが、このアブラムの提示の前に、人間の欲といいますか、またたく間に善人から悪人に変貌していったように見えます。いざという時に、私たち人間は簡単に善人から悪人に変貌しうるということを忘れてはならないと思います。

 国家間のことで言えば、奪われた土地を戦争に勝利して取り返そうという発想ではなく、残された土地を平和手段によって、より多くのものを生み出す土地にしようという考え方です。ロトという人物についてもう少し考えてみましょう。伯父アブラムに従ってきた裏には、結構苦労があったのかもしれません。伯父の主張に従わなければ一族はうまくまとまらなかったでしょうから、いやいや説得に応じたことも一度や二度ではなかったかもしれないのです。そうだとすれば、それまで貯めに貯めてきた思いが一気に噴き出したのでしょう。いかに伯父と甥の関係とはいえ、信仰は信仰、ビジネスはビジネスと割り切ったとも考えられます。そうだとしても、そもそも信仰とビジネスを二つに分けるというのは、信仰者の取るべき道ではないように思います。これは現代でもそうですが、信仰と生活は私たちにとって車の両輪みたいなもので、自由勝手に分けられるものではないのではないでしょうか。アブラムはロトに「自由にしていいよ」と言ったので、ロトは糸の切れた凧のように、表面的なことだけで不信仰を選び取ってしまった、と言えないでしょうか。

 ロトが選んだのはヨルダン川流域の低地です。砂漠に比べれば、潤い豊かなエデンの園のように見えたことでしょう。飢饉に苦しんだ経験のあるロトにとってみれば、低地を選んだのは当然かもしれません。12節の終わりに、重要なひとことが記されています。『ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した』。このソドムは、19章に出てくる有名なソドムとゴモラのソドムです。テキストに続く13節には、『ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた』 とあります。ロトは、不道徳の町へ天幕を移したのです。ロトはソドムの町が罪人の町であることを承知していたかもしれません。それでもあえて行ったのは、悪の誘惑に打ち勝つ自信があったからだ、とも考えられます。しかし悪の誘惑はそんなに簡単に乗り越えられるものではありませんでした。

 テキストの後の話ですが、ロトはその後、神さまとアブラムの助けがなければ、滅びるところにまで追い込まれています。このロトの姿を見ていると、私は放蕩息子を思い出します。あの放蕩息子だって、初めから譲られた財産を使い果たそうと思っていたわけではないと思うのです。あまりに誘惑が強いので、放蕩の泥沼にはまっていったのです。放蕩息子に、あの走り寄って抱きしめてくれた父親がいたように、ロトにはアブラムがいたので、彼らは滅びずに済みました。アブラムは住みついたその場所にすぐ礼拝する祭壇を築く人ですから、日々ロトのことも祈ったことでしょう。その祈りは、本來私たちキリスト者が常に心がけるべきものでしょう。ロトがアブラムから去った後、神さまはアブラムに約束をくださっています。

 それが14節以下に書かれていますので、どうぞ後でお読みください。神さまはそこでアブラムがハランからカナンの地に最初に来たとき与えてくださった約束を再確認されています。私たちの人生には波乱が多いものです。越え難い山や谷もあります。しかし、そういうときに神さまは約束を再確認されるのです。私たちはかつてイエスさまに従って自分の人生を歩もうと決心しました。そのとき、どんな恵みを神さまから頂いたのかを思い出す必要があります。信仰を与えられ、新しい道を歩み出したときの喜びを思い出すことは、私たちが人生の山坂でフーフー言っているときに、再び立ち上がる力を湧き上がらせてくれると思います。神さまの約束は反故にはされません。イエスさまは「神の国を賜るのは神のみ心だ」と教えてくださっていますが、それだからこそ、人間の間の約束ができていなくても、アブラムが体験したように、「東西南北見渡せる土地はすべて自分のものだ」と言えるのです。

 もちろんその土地は目に見たり手で触ったりできるようなものではありませんから、それを信仰を持って受けとめる以外にありません。アブラムは住みついたその土地にすぐ祭壇を築いた、と先ほど申しました。それはアブラムの神さまへの感謝のしるしでもあったでしょう。私たちならば、それは、毎週皆さんと共に神さまの前に額づく礼拝です。きょうの説教題は「信仰と不信仰」ですが、別の表現をするならば、「未来に生きるアブラハム、現在に生きるロト」としてもいいと思います。あるいは、「自分の力で生きるロト、神の力で生きるアブラハム」でもいいかもしれません。イエスさまは、『神と富とに兼ね仕えることはできない』とおっしゃいましたが、私たちはアブラハムの道を行くか、ロトの道を行くかしかないのです。人間は神と富を、両手の花にすることはできません。神と富の中間はない、ということを自覚しましょう。この問題はいろいろな形で私たちの前に現れます。富は精神にも関わりますので、富によって傲慢にもなれば卑屈にもなります。アブラムとロトの将来の明暗をしっかり目を開けて見続けることが重要です。

 聖書はなかなか厳しいな、とつくづく思います。祈りましょう。


 
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