2017.4.09

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「キリストに倣って」

秋葉正二

イザヤ50,4-9フィリピ2,1-11

 教会がこの世に誕生した紀元1世紀は、地中海世界にギリシャの文化があまねく影響を与えていた時代です。 ギリシャ世界には多くの神話があり、たくさんの神々がいました。 そこには英雄や偉人と称えられた多くの神々のモデルを見出すことができます。 たとえば、最高神と位置付けられているゼウス(ローマ神話のジュピター)。 父のクロノスを主神の座から追い出し、オリンポス12神と呼ばれる兄弟姉妹からなる神族の活躍により、他の神族や怪獣を一掃します。 オリンポスの山々に神々の館を定め、英雄である神々アルテミス、アポロン、アテナ、ヘラクレスなどの父となっています。 パウロが訪れたエフェソの町にはアルテミス(ダイアナ)の神殿がありましたし、コリントの町を見下ろす山頂にはアフロディテ(ヴィーナス)の神殿がそびえ立っていました。 また、アテネのアクロポリスの丘にあるパルテノン神殿には守護神アテナが祀られていました。

 フィリピはローマから特権を与えられていた軍事上の有力都市ですから一番盛んなのはローマの皇帝礼拝でしたが、その他にもトラキア、イタリア、エジプトなどの神々を礼拝する市民たちがたくさんいたことが分かっています。 そういう中で細々とユダヤの神さまに礼拝を捧げる小さな群もあり、そうした小さな集会場をきっかけにして、教会が生まれていったわけです。

 フィリピはパウロが初めてヨーロッパの土を踏んだ都市として有名ですが、その辺りのことは使徒言行録に記されています。 いずれにせよ、そうした神々が鎮座まします世界の真っ只中で、パウロは教会を生み出し、キリスト教を広めていったのですから、今更ながらその働きのスケールの大きさに脱帽せざるを得ません。 パウロ個人に優れた能力や伝道活動を展開しようという強固な意志があったとしても、それだけではその働きは成し得なかったと思います。 パウロには聖霊が豊かに注がれていたに違いないのです。

 さて、ローマ帝国時代、地中海の町々に住んだ人々のように、神殿にかこまれて神々や英雄を毎日見ていたとしたら、多かれ少なかれ、何らかの影響は受けざるを得なかったでしょう。 どのように影響されていったかを考えますと、おそらく神々の数々の英雄譚に触発されて、勇気や知恵といったものを何とか自分のものにしようと熱心になっていった人たちも少なくなかったと思います。 で、そうした努力は結局のところ、自分の名誉や手柄を残そうという姿勢になって行かざるを得なかったと思うのです。 そうなれば、そこからは権利を強調する自己主張が生じますし、人生経験を積めば積むほど、損得の駆け引きも巧みになっていったことでしょう。 しかし人間というものは、ひとたび自分の名誉が踏みにじられれば、ものすごく腹を立てて憤る存在です。 もしそういう目に遭ったとすると、おそらく人々はいっそう勝手気ままに生きていくようになっていったのではないでしょうか。

 さて、きょうのテキスト、パウロがフィリピの教会の人たちに宛てた手紙には、そのような生き方、ギリシャの神々や英雄を見ながら生きていたポリスの人たちの生き方とは正反対の生き方が語られています。 これこそが教会をまたたく間に飛躍せしめた秘訣と言えます。 その秘訣は一言で言うと、キリストを模範に生きるということです。 その模範に倣らう具体的な生き方を、パウロはこの手紙にしたためました。 きょうのテキストの最初のパラグラフは1節から4節です。 ここには、私たちがへりくだった心を持つことがいかに大切であるか、が語られています。 冒頭の1節、『そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください』。

 こうした言葉を引き出しているのは、前の部分1章を読むと分かりますが、パウロがいかにフィリピの教会の人たちを熱愛していたか、という点に由来していることが分かります。 そしてその熱愛は、イエス・キリストに由来しているのだ、とパウロは力説するのです。 自分がそうであったように、「フィリピの皆さん、あなたがたもキリストの出来事によって神さまから励ましと祝福を与えられていますよ」と彼は語りかけます。 「愛の慰め」という言葉は、もちろん神さまの愛がもたらしてくれる慰めです。 また、「“霊”による交わり」は聖霊による交わりを表しています。 こうしたことを、パウロは教会という共同体の中で機能するように用いなさい、と呼びかけているのです。

 「共同体の一致」という点がとても重要だと思います。 『同じ想いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに』 という表現が教会という共同体の在り方をはっきりと示しています。 また、3節から4節の言葉は、私たちにとって少し頭が痛い内容かもしれません。 私たちだけでなく、歴史上の代々の教会の人たちはきっと同じ思いを抱いたであろうと思います。 『何事も利己心や虚栄心からするのではなく』、つまり利己心や虚栄心を捨てて、ということですが、これがなかなかできないのが弱い私たち人間だからです。 そもそも自己を断念するということは、心をまっさらにして福音の真理にのみ従え、というのがパウロの意図するところだと思いますが、自己を断念することなどそもそもできるのか、と思ってしまいます。

 仏教などではそのために様々な形の修行があります。 断食して堂に篭るとか、座禅を組むとか、一心不乱に称名を唱えるとか、いろいろな修行にお坊さんたちは取り組まれます。  キリスト教には修行に相当するものがどうもないように思うのです。 あえて言えば、修道院の労働と祈りだけの生活といったところでしょうか。 もう30年近く前のことですが、熊本県の玉名市にあるシュバイツァー寺で、カトリックの神父さんたちと座禅を組んだことがありました。 私にとっては、なかなか貴重な体験でした。 カトリック教会には、仏教の禅を積極的に取り入れる姿勢があります。 板橋の教会時代に、上智大学の門脇佳吉先生の集会に出させていただいたことがありますが、そこからも学ぶことがたくさんありました。 プロテスタントももっとこうした試みをしてもいいのかもしれません。

 話を戻しますが、パウロが私たちに示しくれるキリスト者の在り方が成立する鍵は、やはり聖霊の働きに尽きると思います。 当然祈るという私たちの日常の在り方が重要になってきます。 パウロはただ単純に 「へりくだりなさい、自分のことだけでなく他人のことにも注意しなさい」 と言っているわけではありません。 彼はフィリピの教会の人たちの日常をしっかり念頭に置いて、日々祈ることの中から、こうした言葉を紡ぎ出しています。 ですから、思弁を重ねて手紙を書くというよりは、祈りの中から自由に筆を走らせているといった方が正確だと思います。 そういうことならば、この手紙を読んでいる私たちも同じような心持ちになるべきでしょう。

 パウロは大事な勧めをアドヴァイスしながら、更に重要なその勧めを生み出す信仰の本質に切り込んでいきます。 6節以下を見てください。 6節以下は多くの聖書学者が「キリスト賛歌」と呼んで、パウロ自身の筆になるものではなく、すでに当時の教会世界に存在していた賛歌であろう、と見ている部分です。 しかし私たちに結論が出せるわけでもなし、私たちは私たちなりに読み進めればよいでしょう。

 ここでは、私たちキリスト者の生きることの土台である 「キリストの救いの出来事」 が確認されています。 6節から8節にかけては、キリストがどのように人間として私たちの前に現れてくださったのかが述べられています。 きょうは棕櫚の主日ですが、まさしくきょうこの日、私たちキリスト者が確認すべき苦難のキリストの姿がここにあります。 イエス・キリストは人間救済のために、へりくだった姿で私たちの前に現れました。 この「へりくだり」はいわゆる道徳的な意味でのへりくだりということではありません。 いうなれば、人間が神さまの下で生きていくための根本原理と言えます。

 『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました』 とパウロは言うのです。 そういう意味の「へりくだり」なのです。 ですからキリストと同じように「へりくだる」ことなど私たち人間にはとてもできません。 神の子たるイエスだけが、そのように人として受肉された、とまずパウロは語ります。 そして、そのキリストの「へりくだり」こそ、人が生きる根本原理であることを示すのです。 イエスさまがこの世でどういう風に生きられたかをしっかり目を開けて見なさい、とパウロは言っているようです。

 イエスさまのこの世での生き方は、誕生の時からずっと貧しい中での歩みでした。 イエスさまの知恵や気概をもってすれば、この世の権力者や偉い人の生き方に合わせて同じように、富む人たちの生き方ができた筈です。 しかしイエスさまは一瞬足りとも、そうした生き方を指向されたことはありません。 最底辺で、慎ましやかに、しかし誰よりも気高く、その生涯を贈られました。 その姿は、神の前に生きるべき人間の方向性を指し示します。 神の子の受肉という神さまの業としての「へりくだり」だけでなく、その真理を私たち人間にもよく分かるように、人間の生き方としての「へりくだり」も同時に示してくださったのです。 これこそが、棕櫚の主日に私たちが確認すべき最も大切な信仰の真理ではないでしょうか。

 ホサナ、ホサナと調子のよい掛け声だけでイエスさまを迎えるのではなく、そこから始まったイエス・キリストの苦難にしっかり目を止めることが大切です。 人間を取り囲む死や絶望の、この世の闇から抜け出すことができるように、この受難週、命のよみがえりのイースターを仰いで過ごしてまいりましょう。 祈ります。 


 
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