2017.4.23

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「神と格闘する人」

秋葉正二

創世記32,23-33ルカによる福音書24,13-27

 創世記の中でも劇的な場面が出てくる箇所がきょうのテキストです。 しばらく前に「祈り会」でこの箇所を取り上げまして、感想を述べ合いました。 「えっ、神と格闘する?何だそれは」という話し合いになりました。 まア、それはそうとして、舞台は「ヤボクの渡し」と呼ばれるヨルダン川の中流に注ぎ込む東側の大きな支流です。 登場人物は族長ヤコブ。 彼は一族郎党を引き連れて二十年ぶりに故郷に帰ろうとしているところでした。

 ヤコブは皆さんの印象の中にもあると思いますが、双子の兄エサウから父親のイサクを騙して長子権を奪ったずる賢い人物です。 長子権を奪った後、恨みを買った兄から逃れて伯父ラバンの許に身を寄せました。 そこで力を蓄え、財産も築いて後、帰還と相成ったわけです。 彼は用意周到で、兄からひどい目に遭わされないよう、事前に使いを出して贈り物などを届けています。 しかし、いざ故郷が近づくと不安が頭をもたげたのです。 ですからこの時、家族や一族郎党、家畜をすべてに川を渡らせた後、『独り後に残り』 ました。

 なぜ独り残ったのでしょうか? ひとつ考えられることは、いざ20年振りに兄に会う段になって、予想していた以上に不安が高じてきたということです。 万全の準備をしてきてもなお、不安は拭えなかったのです。 父を騙してまで兄から長子権をとりあげ、兄から殺してやるとまで憎まれた過去は、そう簡単には消し去ることができなかったのでしょう。 しかし欠点だらけの彼にも信仰はありました。 目の前の大きな問題を抱えて祈らざるを得なくなったと思われます。 ですから「独り残った」というのは、私は祈りにつながることだと考えます。 そしてその祈りが25節以下に出てくる何者かとの格闘につながってくるのです。

 ヤコブは夜通し何者かと格闘しました。 これを、「彼は夢を見たのだ」という注解書もありますので、そう考えてもよいと思いますが、要するに重要なことは、ヤコブの祈りに対して神さまからの応答があったということです。 格闘した、とあるのですが、一昔前に読んだ注解書には「神との相撲」という題がつけられていました。 相撲と言われると俄然人間的な味わいが出てきます。 そもそもヤボクという川の名前はエアベックという原語に由来すると言われていまして、このエアべックを以前の口語訳は「組み打ちした」と訳し、新共同訳は「格闘した」と訳したわけです。 いずれにせよ、意味合いとしては神さまが「取っ組み合いをした」ということです。

 何者かがヤコブと格闘した、と書かれていますが、この「何者か」と訳されている原語は「男(a man)」という語です。「格闘した」という意味は、夜明けまで神さまとヤコブの間に問答があった、ということでしょう。 ヤコブの祈りに神さまが応答されたのです。 ですから「何者」とは神さまと考えられます。 イエスさまは 『求めよ、さらば与えられん』 と言われましたから私たちも祈るのですが、果たして私たちは本当に祈っているのでしょうか。 夜明けまで格闘するまでに私たちは祈っているか考えさせられます。おまけにその祈りとあるや、かなり自分勝手な、神さまが喜ばれないような祈りもかなりあると思うのです。 これを改めて真の祈りにするには、祈りに祈って、神さまの御心に私たちの心を合わせなければなりません。 ヤコブのようなずる賢い人間を叩き直すために応答を繰り返された、このことを「夜明けまで格闘した」と表現したのではないかと思います。

 で、とにかくその結果はどうなったでしょう。26節にこうあります。 『その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた』。 これは格闘の様子として書かれているので、そういうことになっているのですが、神さまがヤコブに負けるはずはありません。 負けたように書かれていますが、これは大人が子供と相撲を取るようなもので、言うなればわざと負けてあげたというところでしょう。 もともと力自慢のヤコブは、神さまと格闘し、やがては腿の関節をはずされてみて初めて、神さまの前で人間の力がいかほどのものかが分かるのです。 ヤコブは体力だけでなく、持って生まれた才能でこれまでの人生を切り開いてきたという自信があったと思います。

 兄エサウに対しても伯父ラバンに対しても、生じる問題に対してはその才能で切り抜けてきました。 けれどもその才能自体が神さまからの授かりものであることに、ヤコブは気づいていません。 それでも彼は、人間の力ではどうしようもなくなった時、神さまに祈って道を切り開いてきた人物でもあります。 このヤボクの渡しでも以前のように、彼は祈って神さまから保証を引き出すのです。 しかしそれにも拘らず不信仰ゆえに不安に耐えられなくなって、その不安を克服してもらうために神さまと格闘している、と言えるでしょう。

 神さまは、『もう去らせてくれ』 と負けてみせました。 しかし、ヤコブの力が本当は弱く脆いものであることを、最後にちょっと腿の関節をはずすことで表されたのです。 腿の関節はヤコブにとって力の象徴です。 そこにちょっと手を触れただけで彼の関節ははずれてしまうのです。 ヤコブは自分の力がいかほどのものかを思い知ったと思います。 まあ、神さまはずいぶん手の込んだ手段をとられたものだ、と思いますが、これくらいにしないと人間というものは自分の立ち位置が分からないということです。 ヤコブは神の前での無力を知らなかった人間ではなかったと思いますが、こうして繰り返し教えられたことで、何でもできると思っている人間が、実はいざやろうと思った時にできない存在であることを学んだと思います。

 先週から復活節に入っていますが、私はエマオ途上で復活のイエスさまと一緒に歩いた二人の旅人のことを思い出しました。 あの旅人二人は、はじめのうちはイエスさまだと気がつかなかったのです。 三年にもわたって日々訓練を受けた先生なのに、気がつかなかったのです。 その夜、同じ宿に泊まり、夕食のテーブルについて、食前のお祈りをされた時に、「ハッ!」と気づいたのです。 この物語には共通点があるように思いました。 ヤコブという人はそれまでにも何回か神さまに出会う経験をしています。 しかしある夜、何者かと格闘し、最初それが神さまであることに気がつきませんでした。 自分の力で勝ったと思ったところ、急に腿の関節をはずされるという異常な体験を通して、彼は自分の力が神さまの前に如何に無力であるかを知らされた、というのが事の真相ではないでしょうか。

 さて、この後ヤコブはどうしたでしょう。 27節以下に書かれています。 『もう去らせてくれ、夜が明けてしまうから』。 ヤコブは応じます。 『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』。 ヤコブは一応は分かったのですが、神さまの救いの約束を確認したいという思いで、祝福してくださるまでは離さないと言っています。 神さまはそれに答えてくれました。 『お前の名は何というのか』。 彼が 『ヤコブです』 と答えると、神さまは言われました。 『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる』。

 祝福してください、という願いに対して、名前を変えなさい、と言っているわけで、意味深長な場面だと思います。 神さまは最初に名前の確認をされました。 ヤコブという名前には、人を押しのけて自分の思いを遂げていくという意味があります。 いうなればそれはヤコブの人生観で、これまでずっとそれで通してきたのです。 しかし今やあなたは名前を変えて、生き方を変えなくてはならない……ヤコブという生き方をイスラエルという生き方にしなさい、と神さまは言われたのです。

 イスラエルという言葉については、29節に 『お前は神と人と闘って勝ったからだ』 とありますが、これはどういう意味でしょうか。 「神と人とが力を争って勝った」という意味にとられがちですが、実はそうではないようです。 ヘブル語の訳は難しくて私などの手に負えないのですが、注解書にはいろいろな訳があって、「神争いたまえ」とか「神が争われる」とかいろいろです。 きょうの説教題のように「神と格闘する者(人)」とするのが一番落ち着くかな、と思いました。

 つまり、ヤコブのように神と格闘するような傲慢な者であってはならない、と神さまが教えてくれている名前として理解するのです。 「あなたもあなたの子孫にもイスラエルという名をつけることを通して、神の前に謙遜でありなさい、そこに救いがあり祝福がありますよ」 ということです。 ですからこれはヤコブやイスラエルだけの問題ではないでしょう。 キリスト者は、イスラエルの人々に対する神の教えの流れを汲んでいるのですから、キリスト者の生き方も示唆されています。 人間は自らの力では到底立つことなどできない存在です。 神さまによって支えられる以外に生きようのない存在なのです。 イスラエルという名前は、このことを忘れないための名前です。

 結論をひきだしましょう。 イスラエルという名前が「神と格闘する者、争う者」であることは分かりましたが、これは突き詰めると、自らの弱さを徹底的に知って、神さまの支えなくては生きられないということを覚えることです。 そこに初めて祝福があります。 イスラエルはヤコブ一人の問題ではありません。 イエスさまは律法を完成させた方ですが、そこには私たちキリスト者が本当のイスラエルになるという意味が含まれていると思います。 ヤコブという人物を理解するのは難しいのですが、これからも機会あるごとに読み続けてまいりましょう。 祈ります。


 
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