2017.5.28

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「心の内にキリストを住まわせ」

秋葉正二

ゼファニア3,16-17エフェソ3,14-21

 

 読んでいてすぐに気づくことですが、テキストは具体的個別的な問題に触れているわけではありません。 この手紙の冒頭には「パウロから」とはっきり書かれていますが、コロサイ書を下敷きに書かれていることや、使徒たちが聖なる一集団として後の時代から眺めるように尊敬対象として描かれていることなどから、この手紙の執筆者はパウロ後の人物であると見られています。 おそらく回覧文書として教会の礼拝の中で朗読されて用いられていたのでしょう。

 どの教会でもそうですが、礼拝に参じる一人ひとりは、それぞれが個人的な問題を抱えています。 礼拝では個人固有の課題について応答がなされるわけではありません。 当時の回覧文書のような手紙は、現代の私たちが聖書を読んだり、説教を聴いて神さまに導かれたと自覚するように、いわば牧会的な答えとして機能したのだろうと思います。 ですから、私たちもそのようなつもりでテキストに向き合えばよいと思います。

 テキストのテーマは、小見出しにあるように、「キリストの愛を知る」です。 14節冒頭に、『こういうわけで』 とありますので、前の部分、3章の前半とのつながりを受けとめておく必要があります。 そこにはいろいろなことが書かれていますが、たとえば12節を取り上げてみましょう。 12節にはこうあります。 『わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます』。  つまり、こうした自覚のもとに、あなたがたがしっかりキリストの愛に立ち、ますますその愛を深く理解する者になるように、私はひざまずいて父なる神に祈りますよ、と著者は語りかけているのです。

 その上で具体的に、16節以下19節までに、いわゆる「とりなしの祈り」を伝えています。 この「とりなしの祈り」の内容を的確に理解することは、そんなに簡単ではないでしょう。 次から次へと表現が移り変わっていきますから、一つひとつの表現をよく確認しながら読み進まないと、目が回ってしまいそうです。 文章構造がかなり複雑なので、この句はどこにかかっていくのだろうかなど、そういうことに注意しながら読み進む必要が出てきます。

 まず16節には、「父なる神が、その霊によって、力をもってあなたがたの内なる人を強めて……」 とあります。 内なる人は、原文では内部の人、心の中の人といった表現です。 英語だとinner manでしょうか。 内なる人という表現はパウロが使っています。 コンコルダンスを見ますと、この表現は、パウロによって二回使われています。 ローマ書7章22節コリント後書4章16節です。 ローマ書の方は、心の内に内在する罪の問題を論じる中で使われています。 パウロは自分の中に罪が住んでいると言い、善をなそうと思っても自分にはいつも悪が付きまとっている法則に気づくのです。 その際、内なる人としては神の律法を喜んでいるけれども、自分の五体にはもう一つの法則があって、自分を罪の法則のとりこにしている、と述べています。 ですから、内なる人と心の法則が同じ意味として使われています。

 またコリント後書の方では、外なる人は衰えていくが、私たちの内なる人は日々新たにされていく、というふうに使われています。 そこでは目に見えるものは過ぎ去るけれども、見えないものは永遠に存続する、という文脈の中で用いられています。 こうした用方から考えますと、きょうのテキストの内なる人は、キリストによって新しく造られた人という意味ではなく、17節の 『心の内にキリストを住まわせ』 という表現からも分かるように、心そのものを意味しているのではないでしょうか。 要するに内なる人は霊に生かされている人です。 人間における神さまとの接点だとも言えます。 パウロや著者のイメージとしては、イエス・キリストがキリスト者のうちに一緒に住んでくださって、神の宮、聖霊の宮である教会へと成長させてくださる、ということでしょう。 けれども、そうした恵みは、愛に根ざした行為によってのみ深まるものだ、と17節後半で念を押しています。

 愛の実践の結果は、二つの能力という形で現れます。 その一つは18節にある 『キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか』 が理解できるようになる能力で、他の一つは、19節 『人の知識をはるかに超えるキリストの愛』 を知る能力です。 それにしても「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」というのはびっくりするような表現です。 そもそも目に見えない愛を、広さ、長さ、高さ、深さというような目に見える形で言い表そうとすること自体がすごい発想です。 皆さんでしたら、この表現をどんな風に受けとめられるでしょうか?

 コメンタリーを調べると、古来からいろいろな解釈があるようです。 例えば、広さ、長さ、高さ、深さは4方向を表しているので、十字架の4本の腕木のことであるとか、水平に広がる広さと長さ、垂直に伸びる高さと深さで宇宙の広がりを森羅万象を示すとか、ほんとうにいろいろです。 私は単純に、人間の知恵では計り尽くせない神さまの知恵を表しているのではないか、と理解しました。 まあ、あまり勝手に自分の考えを読み込まない方が無難です。 4方向は一種の隠喩でしょうから、著者としてはキリストの体である教会が、拡張し、成長してゆく全体像を描いた、と解釈してもよいでしょう。

 そして、20〜21節は手紙の前半部の結びだと見られています。 一言で言えば、典礼的な頌栄です。 キリストにおいて私たちの内に働く力、そして教会を生み出した神さまの力を挙げながら、終わりをアーメンで結ぶのです。 きょうのテキストはこうして「とりなしの祈り」と頌栄がワンセットになって、続く4章以下への橋渡し的な役割を果たしていることも分かります。 「教会により」という言葉が頌栄の中に入っていることは、著者の教会への思い入れを反映しているでしょう。 きょうのテキスト全体から、私はキリストにおいて私たちに与えられた神の愛は 「永遠の愛」 だということを強く感じました。

 ところで、私たちが神さまを信じ、イエス・キリストを信じるのは、私たちのそれほど長くはない人生のある時期という限られた中で起こります。 それは私たちの経験的な現象ですが、その背後には私たちの経験を超えた永遠なるものがあるのです。 この手紙の1章4節には、『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』 とあるのですが、これは言い換えれば、私たちの救いは神さまがあらかじめ定めていてくださった、ということでしょう。 人格と人格との交わりが永遠の愛によって成立しているということは、私たちがいくら考えようと考え尽くせない大きな愛の告知だと思います。

 私たちの神さまに対する愛や信仰は、私たちのいろいろな生活経験によって変化します。 昨日は熱烈に「イエスさま」っと叫んだかと思えば、きょうはその熱が冷めてしまっているということも決して珍しくありません。 そうした時、私たちは神さまと自分の関係そのものに何らかの変化が生じた、と判断するでしょう。 しかしエフェソ書の言葉に従えば、そのような私たちの側での変化は、言うなれば海面に立つ波のようなもので、たとえ海面は波立って荒れていても、海底は静かに静けさを保っているということです。 神さまと私たちの関係は、時として変化する海面の波とはまったく別に、海底で変化なく維持され続けている、そういうものだというのです。 イエスさまが私たちの心の内に住んでくださり、愛にしっかりと立つ者としてくださるというのは、そういうことなのでしょう。

 しかし弱い私たち人間の知恵によってとらえられ得る愛は、ほとんどが近い者だけを愛する愛、自分にとって価値ある者だけを愛する愛になりがちです。 近い者・遠い者、あるいは価値ある者・ない者という差別をしていれば、それはやがて私たちの世界に分裂を引き起こすはずです。 19節に出てきた 『人の知識をはるかに超える愛』 は、イエス・キリストの愛なのです。 この愛はすでに差別や分裂を乗り越えている愛だ、とエフェソ書の著者は言っているのです。 「人の知識をはるかに超える愛」ですから人の知識で知ることは不可能でしょう。 そのために父なる神さまが、霊により、力をもって私たちの内なる人を強め、心の内にイエスさまを住まわせてくださると、エフェソ書は言います。 パウロもそうだと思いますが、エフェソ書の著者は間違いなく、イデオロギーで対立したり、異なる宗教や文化を背景にもつ人々でも、イエス・キリストの愛の内に一つに和合させてくださる、という確信を持っていたと思います。 現代の私たちもそうありたいと願うものです。   祈ります。


 
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