2017.6.4

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「七人の侍」

秋葉正二

民数記17,18-23使徒言行録6,1-7

 

 ちょっと変な説教題をつけてしまいました。 私の中で「七人の侍」という映画が印象的に残っていたので、テキストにあるエルサレム教会内の七人の世話役の話を読みながら、映画の七人の侍とある種の共通点を感じたのです。 でもこれは私一人の感じ方ですから、「侍」という説教題の方にあまりとらわれないでください。

 さてテキストですが、話はこの世で最初に組織されたエルサレム教会内の出来事です。 エルサレム教会にはギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人がおりました。 ギリシャ語系の人たちをヘレニスト、ヘブライ系の人たちをヘブライストと呼びます。 この両グループの間に問題が起こりました。 ヘレニストからヘブライストに対して苦情が出たのです。 激しい対立といったものではなかったようですが、日々の物質の分配に関しての不平不満です。 物質の問題は大きなことではないように見えますが、実は信仰を損ないかねない危険性をはらんでいます。 具体的にはやもめたちの日常生活における扶助に関わることでした。

 初代の教会において、そこに集まった人たちがどんな関係を結び、どんな共同の生活をしていたかについては、テモテ前書5章にかなり詳しく様子が述べられています。 今ここでは時間もないので読みませんが、そこにはやもめに関連する問題がいろいろ説明されています。 年老いたやもめと年若いやもめへの対処方法の違いとか、身寄りのないやもめと家族のいるやもめへの接し方とか、当時の教会の様子が伝わってきます。 教会という具体的な人々の集合体が生まれると、物質に絡む様々な問題が発生するものです。 会堂の建築とか土地の売買とかもその例外ではありません。 ともすれば、神さまへの信仰が優先されずに、物とか人々の計画とか、人間中心に考えられていくと、そこから苦情や争いが生じることになります。

 教会は宣教のことを常に考えますが、その際必ず物質と結びついた課題が出てきます。 なぜならば、人間そのものが精神的・霊的存在であると同時に、物的存在だからです。 テモテ書簡からも分かる通り、教会の人々に対してなされる愛の配慮も具体的には物を通してなされる場合が多いからです。 そこでは、信仰を中心として物を受けたり分かち合ったりしなければ、せっかくの愛の配慮も苦情が残るだけ、ということになりかねません。 信仰によって与え、信仰によって受けるという落ち着いた態度があってこそ私たちの信仰生活は祝されます。

 さて苦情が出た結果、12使徒は弟子たちをすべて呼び集めて2節でこう宣言しています。  『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします』。  苦情が出た時、使徒たちは、ことは自分たちと神さまとの問題だと反省したのです。 「神の言葉をないがしろにして」という言い方がそのことを表しています。 使徒と教会の人たちの事柄として問題解決をはかろうとするのではなく、神さまはこの問題をどのように考えられ、またご覧になっておられるだろうか、と思いながら事に当たったのです。

 発端はヘレニストたちの苦情でした。 その苦情を通して使徒たちは、「神さまは自分たちに何を教えようとしておられるのだろうか? 自分たちの使徒としての歩みはこれでよいのか?」と考えたのです。 こうした姿勢は、使徒たちが 「神さまならこの問題を通して、信じる者たちに方向を示してくださるに違いない」 と普段から確信していたところから生まれたと思います。 こうした姿勢からは落ち着いた判断が生まれます。 使徒たちは、自分たちがこのところ宣教活動以外のことに多忙過ぎたことを示されました。 ここは私たちがじっくり考えなければならない箇所です。

  罪の赦しの福音と神さまを宣べ伝えることよりも、愛の施しといったような目に見えることに忙しくなり過ぎて、信仰の重要問題と関わりをもつ時間が少なくなっていないか、に気がつかなくてはなりません。 使徒たちはそのことに気がついたのです。 さすがは12使徒です。 彼らは弟子たちに、「あなたがたの中から教会内の世話役を選び出すように」 と要請しました。 その際、ただ選びなさいというのではなく、『“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい』 と言っています。 「霊」と訳されているのは息とか風とかとも訳されるプニューマという語です。 きょうは聖霊降臨日ですが、この聖霊を表す霊です。 英語の聖書にはfull of the Holy spirit とあります。 ですからこの文脈では信仰を表していると考えてよいでしょう。

 「知恵」は言うなればこの世の諸問題への処理能力です。 それだけではありません。 「評判の良い人を」 とも言っています。 これは世渡りの上手な人という意味ではありません。 何と言いますか、人々の間で信頼され、バランスがとれた生活をし、常識も踏まえている人、と言ってよいでしょう。 こういう人をすべての弟子の中から七人選べというわけです。 なぜ七人なのか、という人もいますし、完全数だからという説明もあるのですが、教会全体の人数を見て、このくらいの数の世話人が必要だろうとの判断だと思います。 教会の歴史は2000年にもなりますが、どの時代でも、信徒の集団である教会が健全であるか否かは、ここで選ばれるような人たちがその教会にいるかどうかにかかっている、と言ってよいかもしれません。

 私たちが役員さんを選ぶという行為にも、同様の意味があります。 選ぶ人は教会全体のことをよく考え、ふさわしいと思われる人を選ばなければなりませんし、選ばれた人も変に消極的に自分を卑下したりせずに、神さまの前に謙虚に自分を差し出さなくてはなりません。 そうした体制が整って、初めて伝道者は「もっぱら祈りと御言葉の御用」に邁進できますし、教会は主のための生き生きした活動の場になります。 パウロはそのことをローマ書の12章6節以下でこう言っています。 少し長いのですが、有名な箇所ですから読んでみます。

『わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい』。

 初代教会のよいところは、信仰によってひたすら前を向いて進もうとしているその姿勢です。 ところが人間は弱い者で、二百年経ち三百年経つうちに次第にその純粋な前向きな姿勢は失われて、教会はこの世の知恵に頼るようになっていきました。 私たちが聖書を読んで初代教会の姿に触れることは、そうした退廃から抜け出すためでもあります。 それを最終的に可能にしてくれるのは聖霊の働きです。 何にせよ、使徒たちの提案に一同は賛成し、エルサレム教会はステファノをはじめとする七人を選出しました。

 使徒たちはこの七人の上に手を置いて祈った、と6節にあります。 何かこうその時の様子が伝わってくるような温かいほっとする記事です。 そして7節にはその結果が記されています。

『こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った』。

 ユダヤ教の祭司までもが大勢信仰を受け入れたというのですから、尋常な出来事ではありません。 キリストの福音を一生懸命伝える者と、信徒の群れを、信仰と愛に知恵をプラスして心配りをする世話役がいるところには、神の言葉の広がりを妨げようとするサタンも入りにくいということでしょう。 ましてや、聖霊がそこに豊かに働いていれば、サタンは退散するしかありません。

 ところで、最後に一つだけ気づいたことに触れておきます。 それはきょうのテキストを読んで誤解してはいけない点です。 それはどういうことかと言うと、ある条件を揃えたから教会が祝されるのではないということです。 つまり立派な牧師や立派な役員や立派な信徒が揃えば、自動的に教会が祝されるのではないのです。 エルサレム教会にしろその他の教会にしろ、祝福は神さまが決定されることです。 どんなに頑張ろうが、私たち人間は祝福を先取りすることなど決してできないことを忘れてはなりません。 私たちのできることは、神さまに祝福をいただけるように、神さまから目を離さないことです。 見えない神さまから目を離さないというのも変な言い方ですが、別な言い方をすれば神さまとの対話を欠かさないことです。 ですから、お祈りというのは信仰生活の中でもっとも重要なのです。 最初の方で言いましたが、使徒たちは苦情が出た時、神さまならこの問題をどのように考えられ、またご覧になっておられるだろうか、と思いながら事に当たったのです。 それは神さまとの対話であり、祈りでした。 この点が、きょうのテキストの最重要ポイントだと私は思います。 祈ります。 


 
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