2017.6.25

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「罪まで赦す人」

秋葉正二

詩編25,8-11ルカ福音書7,36-50

 イエスさまは、度々ファリサイ派の人の家に食事に招かれています。 このテキストの物語はそうした舞台設定です。 イエスさまはまず食事の席に着かれます。 席に着いたと言っても、当時のユダヤではギリシャやローマの慣習が取り入れられていて、テーブルを前にして椅子に座るのではなく、横向きに寝るようにするのが正式な食事であったようです。 そこへ一人の罪深い女が入って来ます。 彼女はイエスさまがファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いておられるのを知ると、香油の入った石膏の壺を持ってきたのでした。

 勝手に他人が家に入って来たというのはおかしいな、と私たちは感じますが、当時の社会的慣習では、客のいる家には誰でも勝手に入ってくることが許されていたそうです。 どうもそうした慣習は中近東全体にあったようです。 彼女はイエスさまの足元に近寄るのですが、それはイエスさまの横臥の姿勢の足元に近寄ったという意味です。

 まずこの女性の行動にスポットライトが当てられています。 37節には、はっきり「罪深い女」と書いてありますので、これはおそらく娼婦を意味しています。 娼婦といえば、たいていの人はすぐ軽蔑するのですが、イエスさまというお方は決して短絡的に人物も物事も捉えません。 その人がどんな名称で呼ばれていようと、その人の中身を見られるのです。 きょうの物語はそのことがまず前提です。

 この「罪ある女」は、イエスさまの噂を聞いていたのかもしれません。 イエスさまの足もとに近寄って、泣きながらイエスさまの足を涙でぬらし始めます。 高価な香油を持参しているのですから、彼女には最初からイエスさまにそれを使おうという意思が見て取れます。 しかし香油を塗る前に、彼女はイエスさまの足を涙でぬらしたというのですから、私は何か切羽詰まった深刻な問題を抱えていたのではないかと思います。 この方ならば自分の抱える悩みを解決してくれるかもしれない。 そういう藁をも掴む気持ちだったのではないかと思うのです。

 彼女はイエスさまに近寄ると、もう我慢できずに泣いてしまいました。 少なくともイエスさまのことを、時々やって来る只の巡回教師の一人とは考えていなかったでしょう。 読み進むと気づくのですが、この女性はこの物語の中では、最後までまったく声を出しません。 声を出さなくてもイエスさまとのコミュニケーションはできると、ルカは告げているのかもしれません。 確かに、お互いが相手に意識を集中して心を開いて向き合った時、言葉が必要でなくなることは珍しいことではないでしょう。

 ハラハラと涙を落としながら、彼女は自分の髪の毛でそれをぬぐい、イエスさまの足に接吻しました。 そうして最後に高価な香油を足に塗っています。 言葉はないのですが、これはこの女性とイエスさまの沈黙の会話の場面だと私は感じました。 イエスさまを招いたのはファリサイ派の人ですから、本来ならば招待者とイエスさまの間に心と心が繋がった会話があって然るべきなのですが、それはありません。

 ないどころか、ファリサイ派の人の心には、イエスさまと罪ある女のその情景を見て、心に疑念が沸き起こってきたようです。 彼は40節でイエスさまから「シモン」と呼ばれていますから、それが彼の名前でしょう。 シモンという人物は、もともとイエスさまを食事に招くくらいですから、信頼を寄せていたことは確かでしょう。 40節で、「先生」と呼んでいることからもそれは分かります。

 この先生と訳された言葉はディダスカロスという語で、「ラビ」ではありません。 ラビはある種の権威を身につけている人たちですが、ディダスカロスはラビよりももっと一般的に使われる日常の日本語の「先生」に近い感じがします。 シモンはイエスさまを「先生」と呼んでいるくらいですから、もとより悪気などはなく一般的な意味でイエスさまを尊敬していたことは確かなのです。

 しかし、女性の一連の行動を見ていて、シモンの心の中には、少しずつイエスさまに対する疑念が湧き起こってきました。 39節ですね。 『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』。 これを読むと、ファリサイ派シモンには二つの確信があったようです。 一つは、預言者ならばこんな女に自分を触れさせないはずだ、ということ、もう一つは、預言者ならば人を見通す炯眼を持っているはずだ、ということです。

 というのも、もとよりシモンには「罪深い女」のイメージがはっきりあったのです。 彼は目の前に現れた一人の女性を、そうした先入観なしに見ることができませんでした。 彼がしたことは、自分の中にある「罪深い女」という固定観念にその女性を当てはめただけです。 考えてみれば、これが私たち人間の一般的な姿なのでしょう。 常識という言葉がありますが、私たちは常識という出来上がった見解で他人を判断します。 常識は正しい、と決めてかかっているわけですから、そこには解放された自由な思考はありません。 しかし、常識は一朝一夕に生まれたわけではありませんから、それが普通なことなのでしょう。

 しかしイエスさまは違います。 いうなれば、常識の外で動かれる……。 イエスさまの人を見る目は、固定観念で妨げられるものではなかったのです。 疑念を心に抱いたシモンにイエスさまは「譬え話」をされました。 それが41-42節です。 譬えを話された上で、イエスさまはシモンに質問しています。 この譬え話というのは短いもので、二人の債務者が借金を返せないので、債権者である金貸しがそれをチャラにしてあげたという話です。 その際、一人の債務者の借金が500デナリオン、もう一人は50デナリオンでした。 さて、二人の債務者の中、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか、というのがイエスさまの質問です。

 シモンは即答します。 「借金の額が多かった方です」。 なにか愛が金額で計算されているような印象もあるのですが、あえてイエスさまはそのように尋ねたのです。 もちろんここでシモンは常識的な答えを出しています。 「額の多い方です」。 私には、イエスさまはこれから示そうとされる事柄の準備として、シモンにそう答えさせたという感じがしました。 そして『そのとおりだ』と彼の答えを認めた上で、「罪深い女」の方を振り向いて、シモンに語りかけます。

 女性の方に振り向いてシモンに語りかけた、という動作に意味が含まれていると思います。 この女性が家に入ってきてから行ったことを振り返りながら、その行為をシモンのそれと比較されたのです。 そこには相手に対する愛情から生まれ出る行為というものが記されています。 先々の見返りを期待して行う行為もありますが、そうではないもの……愛から生じる行為があることが示されています。

 イエスさまのシモンに向けた結論は47節です。 『赦されることの少ない者は、愛することも少ない』。 どうでしょうか、この言葉。 「愛されることの少ない者は、愛することも少ない」というのならば、誰でもすぐに分かるような気がします。 例えば、両親に捨てられてしまって、養護施設などで育った人たちのことを思うと、親から愛情をもらえなかった幼少期、青年期の人生はどんなに過酷なものかと私たちは想像します。 愛をもらえなかったのですから、愛を知ることができないのは当たり前です。 そのために施設の職員さんたちは懸命に親代わりになろうと努めておられるのだと思います。

 ところがイエスさまが言われたのは、『赦されることの少ない者は、愛することも少ない』でした。 「赦される」云々は、宗教的な内容に関わる表現です。 この一言をもって、イエスさまは神さまと人との関係に言及されたのだと思います。 イエスさまに対する愛のないシモンの態度は、彼が神さまの愛をあまり必要とはしていなかったこと、つまり神さまを必要とせず、神さまからわずかしか赦しを受け取っていないことを、イエスさまは驚くべき仕方で明らかにされました。

 ですから問題とされているのは、客を迎える礼儀作法といったことではまったくありません。 ファリサイ派の人たちの義をそれなりに認めて、負債の大きい人だけでなく、小さい人のことも指摘されたのです。 ですから、自分の宗教的実践によって神さまへの道を歩める、と考えている限り、人は神さまの恵みを心から感謝して受け取ることはありません。

 そして最後に、イエスさまは「罪深い女」と呼ばれた女性に向かって、罪の赦しをはっきり告げられました。 『あなたの罪は赦された』、この一言は、キリスト教という宗教の最大遺産になりました。 パウロもルターも、この一言から、人は信仰という神の恵みによってのみ義とされる、救われる、という真理を取り出したことを、私たちも忘れないようにしたいと思います。 私たちもこの真理の土台の上に信仰生活を送っています。 祈ります。


 
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