2017.8.20

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「神の自由な選び」

秋葉正二

創世記32,28-29ローマ9,1-8

 パウロはロマ書の1-8章において、人間の罪や神の義について論じた後、キリストの勝利について述べています。  それらはキリストの福音の素晴らしさを説き、勝利の歌を高らかに歌い上げるものですから、そこからは、迫害と困難が訪れても神さまの愛に満たされている、といった確信が溢れています。ところが、きょうのテキスト9章を読み始めますと、そんなパウロの心にも深い悲しみと絶え間ない痛みがあったことが記されています。

 それは同胞イスラエル民族の不信仰の問題でした。イスラエル民族には伝統的な宗教観があり、その中心にはもちろん律法がありました。パウロはファリサイ派の若き学徒として、ユダヤ人社会の中央にいた人ですから、彼らの信仰意識を人一倍理解していたと言えます。そういう人物がこともあろうに、ユダヤ人が決して受け入れようとしなかったキリストの福音の伝道者になってしまったのですから、パウロの心中も複雑だったと思います。

 パウロの心痛の原因には、同胞イスラエルの不信仰という現実の問題があったわけですが、それだけではありませんでした。神さまの選びの妥当性と有効性という根源的な問題があったのです。つまり、イスラエル民族に対する神さまの選び、選民という歴史を踏まえた宗教的伝統が、民族の不信仰という現実によって神の計画が変更されてしまったのではないか、という問題です。

 きょうのテキストでは、この問題に対してパウロは鋭く肉薄しています。1節にはちょっと堅苦しい言葉遣いが見られますが、これは、これから述べることはキリストにかけて真実で嘘偽りはありません、という宣言です。その上でパウロは自分の苦悩について語り始めます。

 彼の深い悲しみは、同胞イスラエル民族に対する愛と心の痛みでした。自分はキリストに出会って救われ、福音を高らかにうたっているけれども、同胞イスラエルの不信仰を考えると耐えられない悲しみに襲われる、と言うのです。3節には激しい彼の感情が吐露されています。

 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

 あれほどキリストにぴったり寄り添って歩んできたパウロが、「これほどまで言うのか」と、ちょっと驚きます。それだけ苦悩は深く、同胞に対する愛が真実なものであったということでしょう。

 パウロはユダヤ人たちを「肉による同胞」、「兄弟たち」と呼んで憚りません。パウロの伝道者としての自覚・誇りは、異邦人への使徒ということだったのですが、同時に同胞イスラエル民族を限りなく愛していたことがひしひしと伝わってきます。彼は神に捨てられ、キリストから引き離されることがどんなに深刻かつ重大なことであるかをよくわきまえていたはずです。その彼が同胞イスラエルのためにキリストから引き離されて、呪われた者となることさえ厭わない、本望だと言うのです。

 4、5節にはイスラエル民族の歴史的な位置付けに話が及びます。イスラエルとは、もともと族長ヤコブに与えられた名前でした。先ほどロマ書と一緒に創世記を読みました。「ヤコブの相撲」などと呼ばれている箇所です。そこにはヤコブと格闘した相手が「その人」と記されていますが、どうやらヤコブは神さまと相撲を取ったらしいのです。「その人」が、“もう去らせてくれ”と言ったのに対し、腿の関節を外されてしまっていたにも拘らず、ヤコブは、“いいえ、祝福してくださるまでは離しません”と応じます。その結果、「その人」は“これからお前はイスラエルと呼ばれる”と言うのです。

 こうした記事を読むと、イスラエルというのは民族的な名前というよりは、初めから霊的な意味を持っています。さらに言えば、神さまの契約によってその祝福にあずかることのできる神の民、ということです。「神の子としての身分」というのは、文字通り「神の養子にされる」という意味です。栄光・契約・律法・礼拝・約束は、皆さん既にお分かりです。栄光と言えば、栄光に満ちた神さまがイスラエルの民の中に臨在されることです。契約は、神さまがイスラエルの民と結ばれた諸々の契約や約束です。律法と言えば、これはもうモーセによる律法賦与です。律法賦与はイスラエル民族形成の象徴であり、彼らの最も優れた特質でもあります。約束はメシア到来でしょう。

 こうしたものすべてがイスラエル民族に与えられており、彼らの霊的な特質だとパウロは言います。5節ではイスラエル民族の存在理由が述べられます。『肉によれば、キリストも彼らから出られた』という言葉が印象的で、『キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神』と、はっきりキリストは神だと言い切っています。 もっともこの部分は、原文で、終止符をどこに打つかによって翻訳が変わってきます。新共同訳では伝統的に、キリストを神として捉える読み方を採用したようです。

 さてその先6節から、パウロはいよいよ「神さまの選び」の問題に取り掛かります。最初に述べましたように、霊的・歴史的に優れた特質をもっているイスラエル民族が、なぜキリストの福音を受け入れず、神さまに見捨てられたような状態にあるのだろうか、という疑問の探求です。

 パウロは答えを求めて、6節以下で熱弁を振るい始めます。7節には、『イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない』とか『アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない』と言い、『かえってイサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』とあります。この言い方の帰結は8節です。すなわち、『肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです』。

 私たちはここで、「神さまに選ばれる」という意味をよく考えなければなりません。ヤハウェの神さまと言えば、私たちは自動的にイスラエル民族の神だと思いがちですが、よくよく考えると、創世記では神様はこの世界の創造主ですから、世界のすべての民族の神なのです。人間を創造したというのは、アダムとエバの子孫、つまりイスラエル民族だけの神さまではないということです。

 ノアの子孫が地上に拡がった後、ヤハウェの神さまは今度はアブラハムに語りかけています。これは人類の一部分に語りかけたという意味です。アブラハム後、イスラエル民族はどうなったか?これは皆さまご存知のように、エジプトに移ったり、奴隷のように外国人労働者として働かされたり、モーセによってようやくカナンの地に辿り着き、定住生活を始めたり、といった歴史です。そこでヤハウェの神さまがなぜ選民としてイスラエルを選んだのか?ここに唯一神教としての特徴がありました。

 唯一神ヤハウェを信じる信仰は、ただ一人の神さまを物差しにして、その神さまの視点からもこの世界を視る、という特徴があります。これこそが多神教にはない視点です。多神教においては、人間が一方的に身近にいる神を見ます。自分がその神さまをどう捉えるかが重要であって、その神さまが自分をどう見ているかなど、突き詰めては考えません。実は、それが偶像礼拝ということなのです。すぐに拝めて、すぐに供え物をして、人間に幸あれと願ってすべてが落ち着く……これが多神教の世界です。

 しかし、ユダヤ教から始まった聖書の神さまは、ずっと絶え間なく私たちと向き合って、対話を続けられる存在です。この対話を私たちは祈りとも呼びますが、対話の中で絶えず宿題を与えられるのです。もちろん祝福もしてくださいますが、問われることをストップすることはありません。私たちが神さまに出会う、信仰を与えられるということは、こういう神さまに出会うということです。

 イスラエル民族は次々に襲う不幸にも拘らず、そうした信仰を貫いたのです。イエスさまは神の子ですから、イエスさまに出会うことも基本的に同じことです。イエスさまは私たちを祝福してくださると同時に、問い続けられます。パウロは神さまに選ばれるという意味を懸命に考えました。彼の結論は人間のつながりは肉によるものがすべてではない、ということでした。

 私たちは家族とか肉親の絆にどうしても縛られて生きざるを得ませんが、こと神さまとの関係で人間存在を捉えようとすれば、肉のつながりは絶対ではない、というのです。隣人を大切にしたり、民族同士の争いを避けたり、戦争を否定する理由はここにあります。私たちの信じる聖書の神さま、イエス・キリストは全人類の神たる存在です。そこにあるのは創造主なる神と被造物人間の関係ですから、絶対性は神さまだけにあります。

 私たち人間は神さまの言われることをよく聞いて、その神さまと謙虚に対話を続けていくしかありません。この神さまイエス・キリストは、私たちを愛してくださる、まったき信頼に足る存在である、とパウロが確信していたことは確かです。お祈りしましょう。


 
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