2017.8.27

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「救いの恵みへの熱き思い」

秋葉正二

エゼキエル書18,1-4エフェソの信徒への手紙2,4-10

 エフェソ書から学びます。1章1節に差出人の名前と宛先が書いてありますので、使徒パウロからエフェソ教会に出された手紙だと普通は思いますが、近代聖書学は内容を神学的に分析したり、本文ギリシャ語を比較したりして、パウロではなく、彼の思想に近い人が1世紀の終わり頃、アジア州の諸教会へ出した回状だとする異論を出しました。そこにはそれなりの理由がきちんと示されていますが、ここではそうしたことに触れず、伝統的な理解に従って、パウロの手紙として読んでいくことにします。2章の冒頭には「死から命へ」と小見出しがつけられていますので、そのことも頭の隅に置いておきましょう。4節から10節までの区切りは、ローズンゲンに従ったものです。

 きょうのテキストでパウロが言いたかったことは、教会とはキリストにおける神の恵みと、それに対する信仰によって救われたユダヤ人や異邦人信徒から成り立ち、善き業のためにキリストにあって作られた神さまの作品である、ということではなかったかと思います。ですから私の印象では、一種の教会論です。ということで、内容に入ります。

 聖書は一般的に罪を死への力として捉え、命の力である神さまから離れてしまった状態として捉えます。しかしエフェソ書はこの罪という概念を抜き出して論じるのではなく、1〜3節で罪に支配された私たち人間の現実の姿を示した上で、4節から「しかし」という言い方から始めて、神さまはそのような人間をひたすら愛してくださることによって、罪に死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださった、と述べています。

 そこには私たちの手柄とか努力とかが役割を担うことはまったくなく、一方的な神さまの恵みだけが働いたことが強調されています。人間の行為を普通「業(ワザ)」と表現しますが、その言い方をすれば、神さまの業は恵み(恩寵)なのです。これは、創造神であり、唯一神である聖書の神さまの特徴であって、一切を取り仕切るのは神様で、私たちはそれを感謝して受けとめるしかない、ということでもあります。私たち人間は、ともすれば罪に傾いてしまう弱さを内包していますが、こうした人間の精神や心をすぐ前の2,3節で、パウロは肉というような言葉で表現したのでした。4節から6節にかけて、この肉である私たち人間を、憐れみ豊かな神さまが愛してくださることによって、キリストと共に生かしてくださる、と救いの門は上から(神さまから)開かれることが力強く宣言されています。

 これは暗黒から光明を見るような、滅亡から生命への転換点であることが示されます。神さまは私たち人間を愛してくださるというそれだけの理由で、罪に死んだようになっている人間を、キリスト・イエスと共に復活させ、天の王座に着かせてくださったと、パウロは断言するのです。罪ある人間の状態は死であるということが、強調して繰り返されていることが印象的です。それだけでなく肉である私たちが救われたのは、と救いの事実を完了形で言い切っていることは、パウロの救いの確信を裏付けています。

 5節に言い表されている信仰の確信を、パウロは6節でさらに広げて、罪ある私たちをキリストと共に復活させ、天の王座に着かせてくださった、と明言したわけです。キリストと共に復活しているというのは、キリストの復活の命を私たちがすでにいただいているということです。それは臨終の後に得られるとか、終わりの日に天の王座に座れるとかいうのではなく、私たちはすでによみがえりであり、天の王座に座っているという断定的な言明です。こうした物言いは復活のイエス・キリストと自分が一緒に生きているという信仰的な確信がなければ言えないでしょう。救いの確信が論理的な結論だけではなく、生きて活動していく上での実体験であることが分かります。パウロは思想を披瀝しているのではなく、生きている中で得られた信仰を証ししているのです。

 7節では、神さまがキリスト・イエスによって示された絶大なる恵みが、来るべき世に、全世界に表されるためである、と究極的な目的が掲げられます。ここに至って、キリスト教が幸福主義とかご利益主義ではなく、崇高な世界宗教へと発展していく道筋がつけられている、と思いました。

 さらに8節になるとパウロの胸中に燃え上がった救いの恵みへの熱い思いが、今や本格的に噴き出します。キリスト教を作ったとまで言われる人間パウロの面目躍如たる姿が、よく現れています。「エフェソの人たち、あなた方が救われたのは、あくまでも恵みにより信仰によったのであり、間違っても自分の力によるのではありませんよ」と念押ししていますが、これは私たちに対する言葉でもあるでしょう。神さまが私たちを救ってくださったのは、只ひたすら自由で自発的な神さまの好意によるのであり、それを「恵み」と呼ぶのですよ、という確信です。しかも9節では、「誰も誇ることがないために」と言って、人間の功名心を遠慮なくはたき落としています。なるほど、キリスト者は善い行いに励みますが、それは決して功績として神さまの前に積み上げるものではないことを確認するのです。

 ところで、その「恵み」は無媒介にばらまかれるのではなく、目当ての者に目的を持って「信仰によって」授けられる、と10節で明かされています。パウロは、救いが「行い」によらないことをだめ押ししながら、もうひと言付け加えたのです。これはつまり、私たちは「神さまの作品」なのだということでしょう。私たちはパウロのように自分の信仰をきちっと見つめて歩むことができたらいいな、とつくづく思いました。

 お祈りします。


 
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