2017.11.26

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「収穫物奉献と信仰の告白」

秋葉正二

申命記26,1-15マタイ福音書 9,35-38

 申命記におけるイスラエルの民にとってカナンの地は、良い地であり豊かな地であり、乳と蜜の流れる地でした。 そこは水が豊かで農作物にも天然資源にも恵まれている、と8章7節以下に記されています。 平野には川が流れ、地下水にも恵まれていたということは、人工的な灌漑も必要なかったということです。 しかもカナンの先住民から、高度な農耕文明と都市文明を学ぶことができました。

 年3回ある祭りも農耕祭です。 ですから、イスラエルの民がカナンの地に入るということは、農耕地への移住を意味しています。 6章10節以下には、大きな美しい町々と豊かな家や貯水槽、ブドウ畑もオリーブ畑も労せずして手に入れたことが書かれています。 これは申命記がカナンの農耕文明に対して肯定的であり、その恩恵に浴したことであり、カナンの先住民を武力征服し絶滅させたという伝説が眉唾物であることを証ししています。 それゆえ、申命記はカナンの農耕文明を積極的に評価していたと言えます。

 こう言うと、いいこと尽くめのようですが、イスラエル民族にとっては非常に厄介なことがありました。 それは農耕祭儀です。 カナンには多くの神々がおりました。 みな農耕神で、高い山や丘の上、茂った木の下で農耕祭儀が行われていた、と12章2節に書かれています。 イスラエルが豊かになって、食べて満足するようになるとヤーウェの神様を忘れて、他の神々に仕えるようになるのではないかという危険がありました。 申命記律法のよって立つ基本的性格は、「一つの神、一つの民、一つの祭儀」という言葉に要約されますが、その危険に対して基本的性格を裏付けるように、申命記はひとりの神ヤーウェに愛を集中するように求めます。 このヤーウェへの愛を中心に据えることによって、単なる律法を超えたモーセの説教という形式を取って、民を説得し、納得を得ようとするのが申命記です。

 きょうのテキストには二つの規定が書かれています。 一つは1‐11節にある「初物の奉献」の規定で、祭司が仲介する仕方と、農民が自分で捧げる仕方の二通りがあります。 もう一つは12‐15節にある「3年ごとの十分の一の献げ物」の規定です。 これらの規定がいずれも神様への信仰の告白が中心になっているということが、きょうのテキストの特徴です。

 まず1‐2節ですが、主が与えられる土地に入ったら、そこで取れるあらゆる収穫物の初物を籠に入れて、主がその名を置くために選ばれる場所に行け、とあります。 「主がその名を置くために選ばれる場所」ってどこ?って思いますが、この表現は既に12章に出てきていまして、言うなれば申命記独自の定型化された言い方で、そこでのみ礼拝をささげなければならないという訴えの意味をもっています。

 カナンの土地に定住する時、初物を中央聖所に奉献する出エジプト記の記事もありますが(23,16etc.)、聖所を定める行為の中に、後の神殿祭儀を垣間見ることができます。 聖所には祭司がいて、神様に土地授与を報告すると、祭司は初物を祭壇の前に供えました。 これが祭司が仲介する奉献規定です。

 もう一つの奉献の仕方は農民が自分で献げるやり方です。 これが5-11節にあります。 農民は自分で奉献する時に、かなり長い信仰の告白をします。 その内容は信仰の教理を述べるというようなものではなく、民族救済の基本的出来事を要約した告白です。 それが5節後半から10節前半までずっと続いています。 『わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり……』で始まる部分です。

 かいつまんで言うと、出エジプトの出来事と土地の授与です。 これは実はヨシュア記24章にある有名な「シケム契約」の記事の中にも出てきますから、イスラエルの民については常に確認すべき重要な事柄なのです。 エジプトにおける苦難と同胞の阿鼻叫喚から救われる道筋が語られています。 救いと言ってもここでの救いは罪からの購いではなく、文字通り苦しみからの解放です。 それも人間としての尊厳と自由を踏みにじられた苦しみからの解放です。

 聖書にはこういう形の救いも教えられていることが分かります。 しかも苦しみから救われただけでなく、土地を与えられ新しい生活の場が備えられるのです。 これがとても大切なことです。 イスラエルの民は創造神信仰によってではなく、歴史を通した神の解放の働きによって生きるということを学び始めるのです。 しかも現在の生活を通じて感謝という形で告白をしていく……これは素晴らしいことです。

 ドイツの旧約の碩学フォン・ラートは、「苦悩→叫び→救い」という構成を、個人の感謝の歌の構造と比較するという優れた洞察を示した上で5節以下を「歴史的小クレドー(信仰告白)」と名付けましたが、これは旧約世界を理解する中心となりました。 10節に見るように、農民自身が感謝の言葉を述べ、捧げるのも農民です。 祭司は介入しませんから、申命記は万人祭司的傾向の嚆矢と言えるかもしれません。

 もう一点重要だと思うのは、ここでの出来事が、単なる神様からの一方通行ではないという点です。 一つなる神と真摯に向かい合う生きた呼応関係が生じています。 ここでの苦しみは個人的な内面の問題ではありません。 現実の生活で出会う苦しみです。 現代の日本は世界の多くの国々の現実から比べると、総じて平和です。 苦しみ叫ぶということがすっかり忘れ去られているような気がします。 しかし、表面的には平和に見えますが、苦しんでいる人たちは意外に多いのではないでしょうか。

 叫ぶことを忘れたり、叫ぶ相手が見出せない場合、問題は深刻です。 私はテキストにあるようなイスラエルの民と神様との相互関係が素晴らしいと思いました。 イスラエルの民のように神様と向き合えたら、叫ぶことを忘れてしまっている私たちももっと神様に向かって叫ぶことができると思ったのです。

 10節は農民の個人的な語りかけという形で、「いま私が献げようとしている地の初物は、あなたが私にくださった地から取れたものです」という心からの感謝に溢れた言葉になっています。 そこにあるのは、神様の壮大な創造の業などではなく、実感している歴史的な救いの諸行為です。

 11節もいいですねェ。 農民自身が自分で神様の前に供え物を献げて礼拝します。 そこではレビ人と寄留の他国人への特別な配慮が示されています。 このことは、旧約聖書で何度も何度も言及されていることですが、失敗ばかり繰り返してどうしようもないイスラエル人が、驚くべきことに寄留の他国人や寡婦や孤児への温かい眼差しを、神様の教えとして失ったことがないのです。

 私は旧約聖書を読んでいて、「寄留の他国人」などの言葉が何度も出てくる理由が最初は分からなかったのですが、ある時ピンときました。 これは聖書の神であるヤーウェの特質であり、イスラエルの民の持つ信仰に基づく温かな心情なのです。 それに気づいた時、滞日外国人の人権問題にきちんと関わろうという覚悟ができました。 自分の関わる活動が聖書的に裏付けられているということは大きな力です。 私の外キ協事務局長の任も15年を超えました。 そこには同じように聖書から押し出されて活動する仲間がいます。 教団教派を超えた交わりは素晴らしいものです。

 12節以下には「3年ごとに収穫物の十分の一を献げる祭儀」のことが書かれています。 3年ごとの十分の一を捧げる時に、神様の前で行う宣言の言葉です。 11節に続いて、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施すべきことが述べられます。 町の中に蓄えるべき3年ごとの十分の一が、聖所への献げ物と見なされました。 神様に献げるということがどういう意味を持っているのかが明らかにされています。

 14節では喪中における行動や、死者に供えることに言及していますが、そこにはカナンの植物神やバアル神が収穫の時に死んで、春によみがえるというカナンの豊穣と多産の儀礼が念頭に置かれています。 いずれも異教との断絶を求めた規定です。 最後に私たちはこのテキストから、イエス・キリストが傷つき苦しみ呻く人の立場に身を置かれたことを思い出したいと思います。

 正統信仰という言い方がありますが、いかに正統信仰でも硬直した時には、苦しむ人の声が聞こえなくなる時があるのです。 イエス様が苦しむ者の立場に身を置き、その立場を自分に引き受けられたのが十字架です。 イエス様は十字架上で、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれました。

 イエス・キリストは、嘆き苦しむ者と共におられる方です。 私たちは苦しむ者の叫びが聞かれることを信じて、自分のありのままを正直に隠さず、神様に嘆き訴えることができます。 それは決して不信仰などではありません。 神様に対する深い信頼の表明だと信じています。 お祈りします。


 
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