2018.02.04

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「キリスト者の安息」

秋葉正二

ヨシュア1,1-9ヘブライ4,12-13

 説教題に「キリスト者の安息」とつけましたが、これは本日のテキストを含む一まとまりに「神の民の安息」と小見出しが付けられていることによります。 その一まとまりは、3章7節から4章13節までの2章にまたがる長い部分ですから、本日のテキストとしては結びの部分に位置している最後の2節だけを掲げておきました。

 そういうわけですから、先ず一まとまりである「神の民の安息」全体を理解しておかなくてはなりません。 構造をかいつまんで申し上げます。 「神の民の安息」という題で何が書かれているかを一言で言いますと、「神様の言葉に聞き従え」ということになると思います。 きょうのテキストの12節にも『神の言葉は生きており』という表現がありますので、神様の言葉に関することが書かれていることが、ある程度押しはかることができます。

 「神様の言葉に聞き従え」と言えば、それはキリスト者に対する一種の勧告になります。 また勧告だけでなく、「神の民の安息」の内容には神様からの約束も含まれています。 この主張の展開の仕方が、他の文書とは異なり、ヘブライ書の独自性と言えるでしょう。 ともあれ、最初に一読して気づくのは、「今日」 という言葉が何回も繰り返して出てくることです。

 「今日」という言い方は、時間的な理解に基づけば、「今」という感覚でしょうか。 おそらく何かの今性、今日性を論じているのです。 もちろん「安息」という言葉も繰り返し登場します。 最初は神様の安息という意味で使われるのですが、それがやがて人間がその安息にあずかれるか否かという話になっていきます。さらに挙げれば、「神の言葉」もキーワードの一つです。 そこでこうしたキーワードを軸にして、そこから何が出てきて、それらがどういう風にテキストの結語とつながっていくのかを探っていきましょう。

 まず「安息」ですが、言葉のルーツは創世記の創造物語です。 本書では4章4節がそこを取り上げています。 神様が六日をかけてこの世を創造され、七日目に休まれたという創世記の記事です。 安息は安らかに休むということですが、人間にとってみれば身体的・精神的にくつろいで、元気を回復することです。 人間にとって休むことの由来が神様ご自身の休息にあることは興味しろい捉え方だと思いました。

 ヘブライ語の安息を表す語(ヌーアー、サバト)には「平安」とか「くつろぐ」の意味もありますが「やめる」という意味もあります。 神様は天地創造の作業を六日でやめて、七日目をご自身だけの日とされました。 「くつろがれた、やめた」には七日目を祝福して聖別し、完成の記念の一日とされたという意味が含まれています。 この安息日をキリスト教会は日曜日に守り、同時にイエス・キリストの復活の記念日としています。

 本書では3章11節で神様がこう言われます。 『わたしは怒って誓った。彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』。 荒野の40年の旅で、イスラエルの民は度々神様に背きましたが、神様が誓うなんて彼らには思いもよらなかったでしょう。 しかも「あずからせはしない」と言われるのですから、これは強い警告です。 安息が与えられなければ、労苦や気遣いや敵からの襲撃に苛まれていたイスラエルの民は平安はなくなるのですから大変です。 安息は神様から始まって、家畜や奴隷たちにまで広がっていったわけですから、それに与れないことは深刻な事態を引き起こします。

 安息は荒野の民にとっては約束の土地カナンを意味していましたが、それが時代が下るにつれ神の民に残された休息の状態を意味するようになりました。 12節には『あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい』という一節がありますが、これなども「安息にあずからせはしない」という警告につながった言葉です。 「離れてしまう者がないように」という表現は信仰的な背教とか棄教をイメージさせます。 古代であろうと現代であろうと、それはあるわけですから、これはやはり、不信仰という出来事はいつでも起こり得るという警告です。

 そうした警告の中で「今日(きょう)」という言葉が使われます。 『“今日”という日のうちに、日々励まし合いなさい』というのです。 この「今日」は、本書が書かれた時代の「今日」ですが、現代の私たちが生きる時代の「今日」でもあると思います。 本書の著者は自分も含めて、教会に集う人たちの「今日」、「今」に焦点をあてています。 「今日」という言い方には時間的な概念が入り込んでいますが、言うなれば、神様の「今日」の中にキリスト者は置かれているのです。

 それは信仰における終末の問題です。 本書の4章で言えば、7節あたりが関連します。 安息とは本来この地上で達せられるものではなく、終末時におけるこの世の完成の状態を意味しているということです。 ですから安息を意味した約束の地である地上のカナンではなく、天上のカナンこそが真の安息だということが言われています。

 4章の8節ではヨシュアが引用されるのですが、ヨシュアはここでイエスさまの対照として示されています。 ヨシュアはモーセの後継者として指導者の役割を引き継いでカナンの地に入ったのですが、それは地上の指導者の姿です。 これと対照に本書の著者が伝えたかったことは、イエス様のことだったと思います。 イエス様は、いわばキリスト者のために救いの道を切り開く先駆者として、天のカナンを目指して歩まれたと言えます。 ヨシュアはイスラエルをこの世の大切な業へと導いたのですが、イエス様はそれこそ全人類のために永遠の安息への道を敷かれました。 その安息に与れるように、というのが神様の私たちに対する警告であり、約束でもあります。

 私たちキリスト者は旧約聖書に即した言い方をするならば、新しい神の民なのです。 だから私たちはこの安息にあずかれるように努力しようではありませんか、と本書の記者は呼びかけています。 今や神様の「今日」は到来しているのだという宣言です。 さもないと、私たちは不従順の轍を踏み、堕落するかもしれないと警告するのです。 そして、その理由として、最後に本日のテキストである12節13節が与えられます。

 著者は神様の言葉が生きていることを、すごい表現で語ります。 神様の言葉は、『どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる』と断言しています。 これは神様の言葉が、人間の実存の深みにまで到達して、人の思いがみ心に沿ったものか否かを見分けるように働くという意味でしょう。 またそう言い切れる理由は、神様の前ではすべてのものが裸であり、さらけ出されているからだ、というのです。

 これはイスラエルの民が目に見えない神を追い求め、苦難の歴史を積み重ねて辿り着いた神認識の終着点でもあります。 しかしイスラエルの民は、もう一歩先の神の子イエスをキリストとして掴み損ねてしまったことが残念です。 結論は13節の最後の言葉にあります。 『この神に対し、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません』。 この言葉の背後にあるのは終末時の最後の審判でしょう。 私たちは神様の前で、やがて人生の総決算をしなければなりません。 私たちはキリスト者として恵みのうちに歩ませて頂いていますが、審判者としての神様の前に立たされる存在であることも忘れてはならないと思います。 祈ります。


 
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