2018.05.06

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「悲しみは喜びに変わる」

秋葉正二

イザヤ38,16-20ヨハネ福音書16,12-24

 ヨハネ福音書は14章からイエスさまの弟子たちに対する決別説教、別れの説教を記します。 決定的な受難が迫り来る中で、イエスさまは弟子たちに牧会的配慮をもって何を語っておくべきか、愛の限りを尽くされます。 福音書記者ヨハネはそれを二段構えで記しましたが、きょうのテキストはその最後の部分です。

 16章はまず聖霊の働きについて語られています。 すぐ前の15章では迫害の予告が告げられていますので、弟子たちは不安に襲われていました。 そうした中で、イエスさまは聖霊について語られたのです。 この福音書は又福音書記者ヨハネが属していた教会の状況にも深く関わっています。 教会にとって迫害は、草創期だけでなく、紀元1世紀の終わり頃になってもまだ現実のものでした。 殉教はヤコブやステファノやパウロやペテロたちだけの問題ではなかったのです。

 福音書記者はこうした現実を踏まえつつイエスさまに決別説教を語らせています。 弟子たちに残すべき言葉として、聖霊について語っておくことはどうしても必要だったでしょう。 イエスさまは聖霊の働きについて語りました。 しかし弟子たちはお師匠さまが何を言われているのかが分からない……こうした構図です。 これはまさしく神さまの前でちっとも真理を悟らず、いつも背信の姿を晒している私たちの姿でもあるでしょう。 聖霊が来るまでは弟子たちにはイエスさまの言われることが理解できないのです。

 そこで「真理の霊」「助け主」が弟子たちに送られる、「私が生きていれば彼は来ない、だから私が死ぬことはあなた方の益なのだ」と、その働きが説明されます。 イエスさまは十字架上で死んで去っていくのですが、しかし復活し、目には見えないけれども聖霊を通していつも私たちと一緒にいてくださる、……主イエス・キリストは永遠に生き給うことを、福音書記者は自分が所属している教会にも語りかけているのだと思います。

 記者の脳裏には常に教会の姿があったと思われます。 ここには後に神さまを三位一体として捉えるようになる考え方の土台があるような気がします。 父なる神、子なるイエス・キリスト、そして助け主なる聖霊が私たちと共にいてくださるという信仰上の確信です。 もう一点、16章の前半では重要なこととして、罪とはイエス・キリストを信じないことだと指摘されていることも見落としてはなりません。

 しかし、こうしたことを私たちは教理として理解しても、信仰上の力にはなりません。 それはイエス・キリストを通して、私たちが徹底的に罪人であること、しかも神さまはイエス・キリストを通して私たちと同じ立場に立ってくださり、私たちの罪を赦してくださること、またこの世の終わりに勝利が与えられることを信じることができる、ということです。再来週はペンテコステですが、私たちはペンテコステを前にして、このことを心静かに思い見ることができたらいいですね。

 さて、聖霊について語られた後、イエスさまは謎めいたひと言を口にされました。 16節のその言葉は、このパラグラフの中心をなすひと言です。 曰く、『しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる……云々』。 こんなことを告げられてしまえば、弟子たちの不安は一層増したことでょう。 十字架と復活の出来事を知らされている私たちにとれば、イエスさまの言葉の意味はよく分かりますが、弟子たちにとってみればこれから何が起こるのかまったく分からなかったわけですから、不安はなお増幅していったのでした。

 特に「しばらくすると」という言葉が気になります。福音書記者がこうした言葉遣いをイエスさまに言わせるのは、イエスさまが十字架にかかられる前の弟子たちの深い動揺やら絶望やらを表現するためだと思われます。 ヨハネ福音書には共観福音書のようにゲッセマネのシーンがありません。 その代わりと言いますか、十字架にかけられる前の弟子たちの尋常でない心の動きが表現されるのです。 一切を捨ててこれまで従ってきたのに、お師匠さまに賭けたこれまでの歩みがもしかすると一挙に崩れ去ってしますかもしれない……、それはおそらく明るい世界から暗黒の闇に転落して行くような不安や当惑、苦しみであったでしょう。 弟子たちのそのような姿をヨハネは描いています。

 イエスさまの人生と弟子たちの人生は緊密に深く結びついています。 これは信仰を考える際にとても重要なことです。 私たちの生涯がイエスさまの生涯と結びついているか? もしそのことを感じないとしたら、私たちは信仰の生涯を送ることは難しいと思います。 イエスさまは弟子たちに、これからもちゃんと聖霊の働きがあるよ、それは継続するよということを約束した後、20節から「子を産む女性の譬え」によって苦しみを通して喜びがもたらされることを告げられました。

 子どもが生まれるということは私たちにとって大きな喜びです。 私たちが生まれた時も、両親はきっと喜びに包まれたに相違ありません。 この齢になっても、私は小さい頃、「ああ母はあの時あのように接してくれた」と思い出すことが沢山あります。 母親は文句なく自分の産んだ子を愛しています。 母親となるには、不安や苦しみという所謂「産みの苦しみ」を経験しなくてはなりませんが、生んでしまった後では、新しい生命の誕生という何とも感動的な喜びの前に、産む前の不安や苦しみは過ぎ去ってしまうだろうとイエスさまは言われるのです。

 私たち人間はお産を通らずしてこの世に存在することはないのですから、この譬えは人情の機微に触れた、まことに身近で力強いものだと思います。 苦しいお産をした時程、喜びも大きいのでしょう。 そこには、十字架の苦しみの夜の後には、復活の喜びの朝が来ることが重ね合わされています。 イエスさまの十字架上での苦しみは、この世界に新しい命の躍動を生み出しました。 十字架の苦しみは、この地上にイエス・キリストが生きて働かれる教会を生み出すための「産みの苦しみ」であったことが分かります。

 弟子たちも後でこのことを実感として体験することになります。 イエスさまの弟子であることは、イエスさまの苦難に学ぶことですが、キリスト者がこの世で負わなければならない苦難には、将来の大きな喜びが約束されているのです。 私たちがこの世に意味ある新しい何かを生み出すためには、必ず何らかの苦しみが伴うも理解しておかなくてはなりません。 何らかの宗教的行為がキリスト者をつくるということではありません。

 この世で神さまの苦難に一緒に与かることがキリスト者を生み出します。 キリスト者の苦難と言えば、一昨日、「潜伏キリシタン」の信仰を今に伝える教会や集落などが国連の世界文化遺産登録に大きく近づいたとのニュースがありました。 政府は関連建物などに推薦の力点を置いていたらしいのですが、勧告は「潜伏キリシタンの信仰」を評価したようです。

 キリシタン迫害は歴史の一コマですが、キリスト者の苦難は決して過去のことではありません。 今日もなお、イエス・キリストを信じ従おうとするゆえに、苦しみの中に置かれている教会やキリスト者が世界各地に存在しています。 この苦しみはいつまで続くのだろうかと暗い気持ちになります。 苦しみの中に置かれているキリスト者はひたすら助けを待ち、忍耐強く明るい朝を待ち続けています。

 きょうのテキストのイエスさまの弟子たちへの言葉は、時代を超えて苦難の中にあって信仰に生きているキリスト者すべてに向けられていると思いました。 『あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる』というお言葉は、イエスさまの揺るぎなき確信であり、約束です。

 私たちはこの約束の下に生きています。 人間の喜びはいつかは消えていくものかもしれません。 私たちが重い病気になり死の淵まで行って生き返ることもあるかもしれませが、しかしそれでも私たちはやがて死にます。 その時、人間の希望はなくなるのです。 けれども私たちの主イエス・キリストの十字架と復活を通しての喜びと希望は誰も奪い去ることはできない、とイエスさまは約束してくださっています。

 私たちの生活上の頼りとなるのはお金や財産や健康な肉体です。 しかし私たちの存在を根底で保証してくれるものは、肉眼では見ることのできないところにあるようです。 イエスさまは弟子たちへの別れの言葉でそのことを明らかにしてくれました。 二百年三百年前の隠れキリシタンたちに遅れを取らないように歩みたいものです。 祈ります。


 
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