2018.07.22

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「あなたがたは地の塩である」

秋葉正二

レビ記2,13マタイ福音書5,13

 きょうは 『あなたがたは地の塩である』 という有名なひとくさりをとりあげました。 そこに出てくるのは塩です。 塩が人間や動物たちの身体にとって重要なものであることは言うまでもありません。 そのことは紀元前の古代の人たちもよく理解しておりました。 旧約聖書にも塩に関する様々な記事が残されています。 旧約の世界で目立つ塩の記事は、神様への供え物の添加物として出てきていることです。 供え物のみならず、料理全般の添加物として腐敗防止に不可欠でした。

 それほど価値ある物質ですから、当然商品としても流通しています。 また旧約には、「塩の契約」とか「ある人の塩を食べる」というような表現も出てきまして、そういう言い方で隷属を表したと言われています。 パレスチナの南、モアブやエドムの地に死海という有名な湖がありますが、死海は「塩の海」と呼ばれていました。 「塩の海」だけでなく、「塩の町」「塩の谷」という地名も出てきます。 つまりパレスチナには塩を採取できる湖があり、岩塩が採れる場所があったことが分かります。

 日本では海水から塩を採取するのが一般的ですが、大陸では岩塩も各地で採れます。 ガリラヤ湖岸のマグダラも塩の産地です。 商品価値があるわけですから、イエス様の時代より少し前、セレウコス王朝はパレスチナ全土に塩税を課しました。 そういう次第で、イエス様の時代にはすでに塩を活用するように勧める諺のようなものがいくつかあったろうと見られています。 イエス様が話しを分かりやすくするために、塩を引用したのは自然なことでしょう。

 福音書の記者たちもこの塩に関する伝承を積極的に取り入れたものと思われます。 マタイ福音書記者も塩を素材にした伝承を利用しました。 マルコもルカも同様です。 そこには当然伝道的なモチーフが込められています。 つまり、イエス様の言葉をしっかり聴く信仰者こそが、宣教活動上の大切な塩である、といった勧めです。 個人的な犠牲の覚悟を促す意味もあったでしょうし、道徳的な堕落防止に関連して比喩的に言及したりしたこともあったでしょう。 福音書が編集された紀元1世紀はキリスト教会が迫害に晒されていた時代ですから、迫害に耐えながら、世の少数者であっても塩としての役割を果たす人こそ地の塩と呼ばれるべき信仰者だ、という宣言でもあります。

 塩と言えば、私は3年ほど前に韓国YMCAで開催された〈マイノリティー会議と宣教〉国際会議を思い出します。その開会礼拝で、WCC世界宣教委員会の委員長代理で出席されたインドのビショップがとても印象深い説教をしてくださいました。 彼はきょうのテキストである、この山上の垂訓の一節を取り上げまして、このみ言葉は現代の文脈に照らすとマイノリティーの共同体に深く関わっている、と言われたのです。

 それは彼の出身国であるインドの歴史に関わることでした。 イギリスによる植民地支配の時代、インドではガンジーという素晴らしい指導者が現れました。 そのイギリス領インドで塩が課税された時、ガンジーはそれに対する反対運動を計画し、実行しています。 「ソルト・サチャグラハ(塩・無抵抗不服従運動」と呼ばれていますが、その抵抗運動でガンジーは、違法に海水から塩を精製したのです。つまり、大英帝国の塩の独占に対する非暴力の抵抗運動です。

 この運動がインドの独立運動に大きな影響を与えて、不服従運動が国中に拡がりました。 イギリスという大帝国に立ち向かった人は最初78人の少数者だったそうです。 しかし次第に帝国による塩の独占に対する抵抗運動が全国的に拡がるにつれ、世界的な注目を集めるようになります。 その時、塩は植民地主義への抵抗を意味すると同時に、命や生活を象徴するものだったと言うのです。

 塩はインド人が皆使うものです。 インドは熱帯気候ですから、汗で流れてしまう塩分を補給しなくてはなりません。 生活必需品である塩は、どんな人権の抽象概念より人々の心に響いたのです。 その話を聞きながら、私はやっぱりガンジーはただ者ではないな、と思いました。 同時にその時、イエス様に通じるところがあると思いました。 ガンジーは「空気と水の次に、私たちの生活に大切なものはおそらく塩だろう」という言葉を残していますが、不当な社会構造や帝国支配といった力に対して、人々が立ち上がる象徴として塩に目を向けたことはさすがです。 この閃きに従えば、「地の塩になる」ということは、すべての人を受け入れる公平な共同体へと世界を変えていくことになります。

 最初に触れました通り、旧約聖書を読むと、ヘブライ人は塩を豊かに持っていたことが分かります。 死海(「塩の海」,申命記3,17)はそのシンボルです。 動物の犠牲を祭壇に備える際、塩が用いられましたし(レビ記2,13)、新生児の体に塩を塗る風習もありました(エゼキエル16,4)。 それゆえ、塩は命、信仰、献身を意味していると言ってもいいでしょう。 人の命そのものであり、私たちのアイデンティティーや使命、特にマイノリティーの共同体としてのアイデンティティーや使命だと言えます。

 さて、もう少し具体的に塩の効用を考えてみます。 塩の最重要な役割はます腐敗防止です。 たったひとつまみ加えるだけで効果を発揮します。 古代世界でも現代でも塩は保存料の中で最も使われているものでしょう。 腐敗を防ぐことは、退廃や破壊から命を守ることにつながります。

 古代ギリシャの哲学者にプルタルコスという人がいます。 福音書が書かれた時代の人物で、英語読みでプルターク、「英雄伝」の著作で有名な人ですが、彼の言葉にこんな一言があります。 「塩は死んだ体に注入される新しい魂のようだ……」。 だから塩は命の象徴であり、破壊に抵抗し、退廃から命を守るものだと言えます。 私たちの生きるこの世は、死をもたらす文化や、神様の支配の倫理的価値の破壊・腐敗によって傷ついている世界です。

 もっと具体的に言えば、戦争や貧困、差別、搾取的な経済構造、生態系の危機などによって、命が脅かされています。 紀元1世紀の教会はマイノリティーの共同体です。 私たちの教会も日本社会では間違いなくマイノリティーです。 けれども、このマイノリティーの共同体にはまさに塩のように、命が脅かされている場所で、命を守り育てる役目があることを、きょうのテキストであるイエス様の言葉は語っているのではないでしょうか。

 先ほども言いましたが、私たちが暮らす世界には、死の力とも呼ぶべき命を否定するような腐敗したシステム、貧困層や自然を搾取する商業主義で営利主義の経済システム、あるいは人種や階級、信条・民族・言語・能力などによって差別する社会システムがあります。 ジェンダーや性的指向もそうでしょう。 現代に生きる私たちは、こうしたものに向き合わなくてはなりません。 ガンジーのような生き方は、単純な無抵抗ではありません。 明確な不服従を表明した賢い抵抗運動です。 私たちが学ぶべき点がたくさんあると思います。昔、母教会でキング牧師の「自由への大いなる歩み」という岩波新書を高校生会の仲間と読んだのですが、彼の公民権運動などのお手本にガンジーの思想がはっきりと示されていました。

 さてもう一点、塩の特徴として、塩はすぐに溶けて見えなくなるということについて触れておきます。 現代人はその反対で、自分がよく見えるようにアピールします。観光地で多くの観光客が1mくらいの長い棒の先にカメラやスマホをつけてパチパチやっている姿を見ると、「ああ、彼らは自分を無にするのとは反対の方向を向いているんだな」と思わされます。

 塩は自らを無にします。 塩が本来の力を発揮するのは、まわりとよく混ざって馴染んだときです。 ちょうどよく漬かったキューリやナスや白菜は美味しくて食が進みますが、その時塩は見事に野菜に溶け込んでいてまったく見えません。 よく馴染んで溶けきっていないとしょっぱ過ぎて食べられたものではありません。

 そういうことからきょうのテキストの言葉を考えると、キリスト者の存在は、食材とよく混ざって馴染んだ塩のように、社会の中で溶けて見えなくなった時がベストではないかと思うのです。 特にマイノリティーという文脈の中では、そうした働きが求められます。 この世の死や腐敗の力に対するキリスト者の抵抗運動もある意味では危険な面もあるでしょう。 でも、そもそもイエスさまの十字架はイエスさまがご自分を私たちのために捧げた、ご自分を無にされた危険な行動なのです。

 イエス・キリストがご自分の命を捧げられたということには、私たちにも死を恐れるな、という呼びかけが含まれています。 「えっ、自分の命を他者のために」と考えると、気力がなえてひるんでしまう私たちですが、キリスト者として生きることの中には、必ずそのことが含まれていると思います。 しかしよくよく冷静に考えて見ると、現代社会にも命を脅かされているキリスト者がたくさんおられるのです。 キリスト者が少数である地域では、彼らは日々試練に遭っています。 エジプトやシリアやイラクの状況を思い出してみてください。 こうした国のキリスト者は厳しい迫害や拷問の中にそれこそ溶けて見えなくなっています。

 平和な日本に生きるキリスト者にはまったく溶けて見えなくなる必要がありません。 でも分かりません。 いつか私たちも社会の中に溶けて見えなくなる時が来るかもしれません。 少なくともそのことを考えておくことは重要です。 そうでなければ、迫害のただ中に置かれているエジプトやシリアのクリスチャンの現実は分からないままでしょう。

 前任地の教会で献身的に奉仕してくださった中国人夫妻がおりました。 今は故郷の上海に帰っていますが、彼らの話ではキリスト教会はほとんど自由な活動が禁止されているそうです。 たくさんの地下にもぐった教会がお隣りの国では塩が馴染むように、社会に溶け込んで活動しています。 自由に信仰生活を送れるのは私たちの国の恵まれた特権であることを忘れてはならないと思います。 私たち日本のキリスト者も、マイノリティーの共同体として、人権や正義に関わる市民社会の活動に参加すべきだと思います。 教会は市民社会とよく対話すべきです。 社会正義や変化の担い手となって、塩が味をつけるように、命の尊厳を守り、この世に仕えるようイエス様から呼びかけられていると思います。

 「塩」という言葉には、人間性や命の尊厳のために闘う人たちに加わりなさい、という命令あるいは招きのイメージが重ねられています。 地の塩となれるよう祈りましょう。


 
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