2018.12.02

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「メシアの来臨」

秋葉正二

サムエル上16,5b-13ヨハネ福音書7,25-31

 ヨハネ福音書の2章から12章まではしるしを中心にしたイエスさまの活動記録ですが、そのうち7章と10章にはエルサレムにおけるユダヤ人たちとの論争が記されています。ユダヤ人と言えば、共観福音書では律法学者やファリサイ派がもっぱらイエスさまの論敵ですが、ヨハネ福音書では、圧倒的に「ユダヤ人たち」という表現で何十回も繰り返し出てきます。もちろんファリサイ派なども出てきますが、ほんの数回に過ぎず、ガリラヤ人もサマリア人もユダヤ人との関連で出てくる表記です。このユダヤ人たちは、7章の冒頭にも記されているように、「イエスを殺そうとねらっていた」存在として登場しています。

 きょうのテキストのテーマですが、「イエスとは一体何者なのか」ということであり、具体的には 「イエスはメシアか否か」 という一点に絞ることができます。メシアと言っても、これもまた簡単には説明できないほど背景は複雑で、時代状況の変化につれて、その意味も変遷しています。王国時代のメシアは、「油注がれる者」という意味で、王や祭司がその就任式の際、油を注がれたことに由来しました。やがて預言者たちを中心に、メシアは正しい治世をもって国を治める理想的な王を意味するようになり、更には神さまの決定的な救いをもたらす「救い主」を指すようになります。

 イエス時代のユダヤ人たちが最も強くメシアを待望するようになっていたのですが、彼らが待望したメシアはイスラエルを政治的に解放してくれるメシアでした。そこにはイスラエルの長い苦難の歴史が絡んでいますし、現にローマ帝国の支配下に置かれて苦しんでいた現実があります。きょうのテキストでは、殺されるかもしれない危険な場所であるエルサレムで、しかもその中心地とも言うべき神殿で公然と語っているイエスさまを見て、ユダヤ人たちが 『これは人々が殺そうとねらっている者ではないか』 といぶかるシーンから話が始まっています。いぶかっているのもユダヤ人たちなのですが、どうも彼らは殺そうとねらっていた張本人たちではなかったようです。

 彼らがいぶかった理由の一つは、殺されかねないほどねらわれているのに公然と語り続けるイエスに、誰も手を出さないことでした。もう一つは、議員たち(口語訳聖書では「役人」)でさえも、イエスという人物をメシアだと認めたのではないか、という心配でした。そこで彼らはこう言っています。『わたしたちは、この人がどこの出身か知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ』。つまり、彼らはイエスさまがナザレ出身のイエスだということを知っていたのです。もしこの人が超人的なメシアならば、人間的な出自を云々されるような状態でやって来るはずがない、ということでしょう。メシアの出身など誰にもわかるはずはないという判断です。エルサレムのユダヤ人たちにとっては、メシアは神的存在、神秘的存在なのであり、その出自は当然人間とは異なって然るべきということなのです。

 さて、ユダヤ人たちの話すことを耳にされたイエスさまは何と大声でこう反応されています。『あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている』。つまり、まず相手の土俵の上で相手の言うことを認める言い方をされます。しかしそれに続いて、自分は神から来た者だと宣言されるのです。『わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない………わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである』。このイエスさまの言葉の中には、神と自分の一体性が宣言されており、神とこの世の関係を空間的にダイレクトに捉えるヨハネ福音書独特の神認識のされ方が示されています。

 ヨハネ福音書では、常に神とイエスの一体性が強調され、その延長線上に弟子たちもつながれます。イエスさまは、エルサレムのユダヤ人にはその重要なことが分かっていない、そこが一番大事なポイントなのだ、ということを指摘されたのです。それはまた 『この人がどこの出身かを知っている』 と言う地上の人間の出自しか意識できないエルサレムのユダヤ人に対する真っ向からの批判であり、痛烈な皮肉にもなっています。このイエスさまの言葉に、ユダヤ人たちはきっと憤激したに違いありません。神とイエスが一体だということは、ユダヤ人にとって唯一の神を冒涜することであったからです。

 30節には 『人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった』 とあります。なぜそうなったかの理由をこの福音書は、『イエスの時はまだ来ていなかったからである』 と説明します。「イエスの時」という表現は、私たちにすぐに「終末の時」を連想させますが、ヨハネ福音書は過去・現在・未来という時の流れの中で終末を捉えることに拘泥されません。同じ7章の8節で仮庵祭の時に「わたしはこの祭には上って行かない」 と仰った後、『まだ、わたしの時が来ていないからである』 と言われていますが、その際の〈わたしの時〉がここでは〈イエスの時〉として再確認されています。それゆえ、ヨハネ福音書は、今あなたがたの前にいるイエスの存在こそが、あなた方にとって決定的な「時」をもたらす存在なのですよ、と告げているのです。これは共観福音書のように、やがて来るべきこの世の完成の時にイエスが再臨される、という終末の理解の仕方とはかなり異なります。この福音書では今が重要なのです。今目の前にいるイエスの存在、それが 「イエスの時の完成形」 である 「十字架と復活」 につながっていくことを少しづつ示してゆきます。

 キリスト教ではメシアは明確にイエス・キリストを指しますが、ユダヤ教ではイエスはメシアではありません。メシアとは誰か? 何者か? を巡ってキリスト教とユダヤ教は決定的な対立をし、やがてはっきり分離していきました。ヨハネ福音書の成立は紀元90年頃と見られていますが、その頃のヨハネ福音書記者が属していた教会はまさにこの 「ナザレのイエスはメシアか」 という問題に直面しており、ユダヤ教会とこの問題を巡って正面からぶつかっていたのです。福音書記者が現実に抱えていた問題が、この福音書にはきょうのテキストのような形で反映しています。キリスト教会はこうした大きな課題を乗り越えながら、教会として形態を整えて行きました。

 さて、きょうはアドベント第一主日です。私たちキリスト者は、イエス・キリストを真のメシアとして認めています。ラテン語のアドベントは到来という意味ですから、私たちは今日から4週間、キリストの到来、すなわり降臨を待ち望みつつ過ごします。そこでは過去における主イエスの降臨を思い起こしてクリスマスに備えると共に、未来における主の降臨を待ちながら心の準備をします。クリスマスが定められたことには大きな意味があります。イエス時代以前のユダヤで待望されていたメシアこそナザレのイエスだ、と明確に認識して、その新しいメシアすなわちキリストの降臨をずっと忘れないように毎年確認できるようになったからです。

 私はきょうのテキストを読んでいて、新共同訳の訳者はよく工夫して訳しているな、と思いました。きょうのテキストでメシアと訳されているギリシャ語は、クリストスつまりキリストです。それをあえてユダヤ人たちのメシア像との相違をはっきりさせるために、ヘブライ語のメシアという語を使って訳し出しています。口語訳ではキリストと訳されていたのです。私は新共同訳の方が意味が明確になってよいと思います。私たちの主イエス・キリストの降臨を覚えて歩んでまいりましょう。祈ります。/p>

 


 
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