2019.01.20

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「安息にあずかる途」

陶山義雄

詩編8,4-10マタイ福音書6,25-34

 詩編第8編は新しい年にあたって私達が頂くのに相応しい聖書の言葉です。新年にあたって、私達が願うこと、あるべき姿、目指すべき目標の全てが示されているからです。先ほど共に読んでお分りの通り、第8編創世記第1章に大変よく似た内容が語られています。宇宙万物の創造者を称え、その秩序の中に置かれている人間の姿を良く示しています。人間とはどう云う存在か、造られた他の存在と何処が違うのか、その中で私達が願うべきこと、あるべき自分の姿、また、目指すべき目標が端的に示されています。そうした内容を全て一つに締めくくっている言葉は、この詩の初めと終わりに歌われています。

 「主よ、私達の主よ、あなたの御名はいかに力強く、全地に満ちている事でしょう。」(8:210) 詩人は創造主の圧倒的な威力に屈している様子が伺えます。創造主の威力の前に屈する小さな存在でしかない人間。それが私達である、と云うことです。ことに大きな自然の災害に見舞われた時、詩人の思いは良く分かります。昨年1年を振り返っても日本では地震(北海道)や台風(21号、24号など)に何回となく襲われ、北海道や中国地方では大きな被害に見舞われました。こうした出来事を前にして、人は二つの考えを抱きます。一つは、被害の大きさや、悲惨さに直面して、「我々は神に見放された」とか、「神も仏もあるものか」と云う言葉を投げかけて、絶望したり、自暴自棄になってしまいます。一方では詩編第8編の作者と同じように、圧倒的な力を前にして、余りにも無力な私達が、膝を屈めて、万物の支配者と出会い、その前に進み出る、と云う謙虚な姿になることもあります。親しい人を亡くし、葬儀に臨んだ時も、同じような思いを抱きます。死の前に私達は無力であり、医療の力を得て多少は生きながらえたとしても、終わりはやってくるのです。神を呪うところからは何も明るく、生産的な未来は拓かれません。それに対して、詩編第8編の歌人に倣い、命の危険や災害の出来事を前にして、こう歌う者になる時、救いが訪れます。「主よ、あなたの御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。」創造主の力に圧倒され、打ちのめされている私達に、詩人はこう語っています。私達人間は他の弱い被造物と同じように滅びゆく存在でありますが、僅かながら異なる所がある。これこそが私達の姿のであり、あるべき目標になるのです。それは「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠として戴かせて下さった」と云うことです。

 詩編8編で「人は神に僅かに劣る者として造られた」とあります。また、創世記の創造物語では「人は神にかたどって創造された」(1:27)とあります。「人は神の似姿である」、これを教会では古くからIMAGO DEI と呼んでいました。英語で云えばIMAGE OF GOD、 訳せば「神のイメージで造られた」となりますが、一体、それは何を意味しているのでしょうか。月も星も、その他どんな被造物も造られた秩序に従って、言い換えれば、自然法則のままに動き、働き、存在しています。しかし、人間はそうした造られた秩序に従いながら、自分たちの力でも秩序と法則を生み出しています。つまり、神に及ばないにしても、頂いた能力をもって、人間の秩序を生み出す存在である、と云うことです。

 新しい年にあたり、私達が見つめ、目標にすべきことは、正にこの一点にあると思います。何が正しく、何が間違っているのか、正しい規準と掟をそれぞれの心の中に据えて生きて行く存在。これこそが神の似姿である私達の生き方でなければなりません。自己本位の私達が、神の似姿である私達であることを自覚する時、自分が存在していることの意味を回復します。隣にいる人も同じく造られ、神の似姿であれば、連帯感も生まれます。共同の働きを回復します。しかし似姿である筈の人間は、その後すぐに堕落の方向に向かってしまいます。それが創世記第3章で描かれている「楽園追放」の物語です。「食べてはいけないと云われた木の実を食べてしまうのです。」この禁断の木の実とは何を指しているのでしょうか。それは既存の掟、神が定めた掟を指しています。神の掟でさえ誘惑に遭うと簡単に破ってしまう人の罪深さが暴かれています。掟を破り捨てた人は自己本位になり、その責任を取ろうともせず、反対に、その責任を他人に擦り付けてしまうのです。更に、隣人や相手の上に立ち、競い合う修羅場へと転落するのです。社会の秩序はどのようにすれば取り戻せるのでしょうか。それは堕落した私達が再び創造の秩序に立ち返る他はありません。人も造られた存在であることの自覚を取り戻さなければなりません。では、どのようにすれば人はもとエデン園に戻れるのでしょうか?

 創世記第3章の失楽園物語にその答えが暗示されています。人とその連れ合いの間に置かれていた掟を食べてしまった、言い換えれば、掟を破り無視してしまった二人は最早、一緒に守るべき目的を失っています。そして責任をお互いに転嫁した挙句、相手を欲望の対象としてしか見なくなってしまいます。裸を恥とするとは、そう言うことです。掟のもと、共通の目的を抱いて生きていた二人である時には、裸であることさえ恥にはならなかったと云うのです。この物語は実に示唆に富んでいます。詩編8編の語る「神に僅かに劣る者としての人間」、あるいは、創世記第1章(祭司資料:1章1〜2章4節前半まで)が語る所によれば、「神の姿に似せて造られた人」が、掟を失い、云わば、無法の状態になった所で、回復すべき以前の姿とは、創造主に代わって人が掟を再構築することです。創造主から頂いた掟ほど完璧ではないとしても、造られた「神の似姿」の叡智をもって掟を再構築することでなければなりません。人間集団が法治社会であるとはそう云うことを指しているのです。聖書では人がそのように神の似姿であり、法や掟を神に倣って作成する存在であることに驕り高ぶることのないように、そして、人が創造の秩序に帰り、回復できるように一つの途を備えて下さいました。それが、今日、すなわち「安息の日」を守ると云うことです。創造の秩序を回復するためにモーセが現れて十戒を人々に提示しました。十の戒めがある中で、その第4番目に「安息日についての規定」が載せられています。出エジプト記20章8節以下にこう記されています(旧126頁)。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間、働いて何れあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにある全てのものを造り、7日目に休まれたからである。主は安息日を祝福して、聖別されたのである。」

 創世記の創造物語から、十戒ではこのように安息日を守るべき掟がモーセによって再構築されています。申命記の第5章にも十戒が載せられておりますが、こちらの方は出エジプト記よりも後の時代に記されたもので、両者に殆ど違いはないのですが、一か所、この安息日規定のなかで、安息日を守るべき理由が違っています。出エジプト記のように「創造の業を終えて主なる神が休まれたからである。だからあなたがたも安息日を守りなさい」、と云うのではなく、エジプト脱出の記念日としてこれを守るように説いています。申命記5章15節にはこう記されています:

「あなたはかってエジプトの国で奴隷であったが、あなたの主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」

 「創造完成記念日としての安息日。また、「奴隷解放記念日」としての安息日。この二つの意味は一つになって3000年にわたり、聖書の民によって守られて来たのです。安息日、には、神が働きを止めて休まれたように聖書の民も休み、安息に入ります。休むとはただ単に労働をしない、働かない、と云うのではなく、自然利用をしない、人もすべての、被造物と同じ存在に帰ることを意味しています。自然利用の典型的な業は、火を使うと云うことです。聖書の民は安息日には火を使わない。自然存在に帰る。自分の存在に帰る。英語のrestとはre(再び) est(存在する)と云う意味をもっています。聖書の民が説いた「労働しない休息」はそれなりに意味を持ってきました。労働基準法がどれほど大切であるかも分かります。でも本当の休息、安息は「自分の存在に帰る」「造られた秩序に戻る」「創造主の懐に抱かれる」、そう言う時に私達は本物の休みを得るのです。出エジプト記に記された、奴隷解放記念日は、聖書の民がエジプト脱出をした歴史を通して神の救いの働を学ぶのです。安息日には最も貧しい食事、苦菜と非常食の「タネ無しパン」(マッゾ)を食べてシナイ半島をさ迷った祖先の苦難を追体験する、これが安息日の過ごし方な思いのです。深層心理学者のエーリッヒ・フロムは安息日の意味についてこう述べています。

「迫害と辱めの2000年間を通じてユダヤ人が精神的にも肉体的にも生き延びることが出来たのは、まさに、1週のうちにこの一日があったからだと云っても過言ではない。この日こそ、もっとも貧しく哀れなユダヤ人でさえも、威厳と誇りに溢れた人間に変えられ、物乞いの乞食も王になりえたのであった。・・・ユダヤ教の律法の中で安息日が一体どうしてそんなに中心的な位置を占めるのかと云えば、それは、安息日が自由の観念、人間と自然、および、人間と人間との間の全き調和の観念、さらに、メシアの時を待望し、人間が時間や悲しみや死を超越しうる観念などを表明するものだからである。」(『神・人間・歴史〜ヒューマニズムの再発見』、原題はYou shall be as God)

 今日の聖日を私達は「地球環境を考える日」として礼拝を守っています。どのようにすれば地球環境が維持できるのか。それは人間ばかりではなく、全ての命あるものにとって、いまや、緊急の課題になっています。火を使うことによって始まった人類の文明は、原子の火を開発した挙句に、地球上のあらゆるものを破壊する力を手にしています。私達は、創造の秩序に帰らなければなりません。全てのものが造られた存在であり、人も創造主に膝を屈め、創造の秩序に帰らなければなりません。己れの存在に再び帰る安息Restに与かるために、私達は週一日、安息日に教会へ集められて礼拝を捧げます。それが本当の安らぎであり、休息であり、命の保全、全ての造られたものとの平和回復させる途であることを聖書はつたえています。安息日を守ることによって、日々の労働で私達は不必要な自然破壊を戒め、調和を図りながら、一週の間、支えられた命を携えて、次の聖日を喜び集うことが出来ますよう、祈りを合わせましょう。主イエスも今日お読みした「山上の説教」で教えて下さいました:「空の鳥、野の花に倣い、思い煩うのは止めなさい。そして神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得ます。明日のことを思い患うな。一日の労苦はその日一日で足りるのです。」

 祈祷:
父なる神様 明日のことを思い患い、労し働いて生きる私達を哀れみ、誠の平安と安らぎへの途を備えて下さり、今日もまた、その恵みに与かることができまして心より感謝申し上げます。どうか、聖日ごとにあなたの御前に集うことが出来ますように、そして、あなたによって命を与えられ、導かれてあることを、自分の働きにも増して感謝し、喜びつつ、日々の勤めを果たすことが出来ますように心から祈ります。


 
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