2019.04.28

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「復活と信仰」

廣石 望

イザヤ書61,1-11コリントの信徒への手紙一 15,1-11

I

 イエスの復活と私たちの信仰は、どのような関係にあるのでしょうか?

 復活信仰は、復活のキリストとの出会いから生まれました。死んでいるイエスが生ける者として私に現れるというできごとから、「神はイエスを死者の中から起こした」「イエスは起こされている」という理解が生じたのです。そして、その後の人々の歩みの中で、復活信仰は検証され、証言されてゆきました。

 イエスの顕現はしばらく続いたようですが、やがて途切れました。もはやイエスの顕現に接する者は、私たちを含めていません。それでも復活信仰は続きます。「見ないで信じる者は幸いなり」(ヨハネ20,29)と言われるとおりです。しかし、それはどのようにして可能なのでしょうか?

II

 本日の聖書箇所の1-3節で、パウロは「福音」について語ります。「私は君たちに告げる、私が君たちに福音した福音を」と。福音について、「君たちが受けたもの」「君たちがそこに依って立っているもの」「それによって君たちが救われるもの」という三つの形容表現によって、コリントス教会の信徒たちにとっての福音の重要性が強調されます。さらに「君たちがそれを保持しているなら」「君たちが虚しく信じたのでない限り」という限定句もついています。信徒たちの中に、〈もはや私たちは(霊的な)復活を遂げており、未来の復活を待つ必要はない〉とする理解があり、パウロがこれに対抗して、将来における信徒たちの復活を待望する姿勢を堅持しようとしているからです。

 パウロが伝えたという信仰定式の伝達について、彼は自らも「受けた」ものをコリントス教会に「伝えた」(1-3節)と言います。このペア表現は、ラビの言葉遣いで、シナイ山上のモーセから口頭で連綿と伝承されて現在に至る伝承伝達を指して使用されます。彼が伝える信仰定式は「第一の事々のうち」の、つまり最も重要な伝達内容のひとつです。それに以外にも、聖餐伝承(1コリ11章)がそうした重要な伝承に含まれます。

III

 パウロが伝えた信仰定式は、以下のようなものです(3-5節

(a)キリストが私たちの罪のために死んだこと――聖書に従って。そして埋葬されたこと。
(b)そして三日目に起こされていること――聖書に従って。そしてケファに、後に十二人に現れたこと。

 前半(a)はキリストの死について、それが「私たちの罪(の赦し)のため」であることが聖書に即しているとされ、死の確証として「埋葬」が言及されます。そして後半(b)ではキリストの復活について、「三日目に起こされている」ことが聖書に即しているとされ、復活の確証として顕現証人が言及されます。全体として、イエスの死と復活の客観性が埋葬と顕現証人たちによって保証される一方で、それぞれのできごとが「罪の赦し」および「起こし」つまり神による復活を意味することが、聖書に即することとして主観的に解釈されていると言えるでしょう。

 「聖書に従って」とありますが、具体的にどの箇所が考えられているかは不明です。「罪の赦し」についてはヤハウェのしもべによる代理の贖罪死が(イザヤ53章)、また「三日目の復活」については、「2日の後、主は我々を生かし、3日目に立ち上がらせてくださる」(ホセア6,2)、あるいは「神は義人たちを3日以上艱難の中に放置しない」(創世記ラッバ91,7)などが考えられているかもしれません。

 ここでは、「贖罪死」「復活」「顕現」の3つが、できごとの生じた順番に言及されます。まずキリストが死に、そして復活し、そして顕現したという具合に。しかし、その背後にある認識は、逆順に成立していったのでしょう。つまり「顕現」体験がそもそもの始まりであり、これがなければ「復活」信仰は生まれようがありません。そして復活信仰が成立しなければ、それに先立つイエスの死が「贖罪」という意味で救いをもたらすという理解も生まれませんでした。イエスの死は、史実としては政治的な処刑でした。この死が罪を赦すという意味で救いをもたらすものであることは、ようやく後になって発見された認識です。

 顕現証人として「ケファに、後に十二人に」と言われていることからは、この告白がおそらくエルサレム原始教会で成立したことが分かります。「ケファ」とは「ペトロ」のアラム語表記であり、彼は原始教会の初代指導者だからです。イエスの死がAD30年ですので、その後しばらくして、またおそらくパウロのダマスコ途上の回心より先に、この告白は成立したものと思われます。

 そのさい「死んだ」「埋葬された」「起こされている」「現れた」という4つの動詞表現のうち、「起こされている」だけが完了形です。これは、神による死せるイエスの「起こし」が福音の根拠であり、かつ現在も有効な現実であり続けていることを示唆します。イエスがAD30年に殺害され、その後しばらくしてこの告白が成立し、AD50年のコリントス共同体の創設にさいしてパウロによって伝えられ、パウロが本書簡をAD54/55年に執筆するまで、この現実理解はくりかえし検証され、保持されてきました。

IV

 顕現証人のリストは、さらに拡大されます(6-7節)。すなわち「500人以上の兄弟たちに同時に」「ヤコブ」そして「すべての使徒たち」が証人です。そのうち、福音書を含む新約聖書の証言から知られているのは、主の兄弟であるヤコブだけです。彼はペトロに続いて、二代目のエルサレム原始教団の指導者になりました。「兄弟たち」「使徒たち」については、ここ以外に証言がありません。そこには女性が含まれる可能性があります。福音書は女性たちへの顕現について明示的に物語りますが、ここに女性たちへのはっきりした言及はありません。

 「現れた」という語の原義は「見られた」で、「私は主を見ました」(ヨハネ20,18)と言うときと同じ動詞です。死者の幻を見る体験そのものは、東日本大震災後の霊体験を始め、世界で広く証言されています。しかし一人の死者をこれほど大量の人々が見たという事例は、他に比較可能なものがすぐには思い浮かびません。集団幻視があったのか、あるいはペトロの幻視が人々に伝染したのかもしれません。場合によっては、パレスティナ以外の地域でも幻視が生じたのかもしれません。

V

 顕現証人の最後に、パウロ自身が言及されます(8-9節)。彼はかつて教会を迫害した経験を引き合いに出し、自らを「月足らずで生まれた者」あるいは「流産」と形容します。いずれにせよ〈生まれそこない〉という意味でしょう。この差別表現はパウロによる自己卑下ですが、同信のキリスト教徒から彼が受けた誹謗である可能性もあります。

 それでも彼が自らのいわゆるダマスコ体験を、ペトロその他の顕現証人たちと同列に置いていることは明らかです。そこには、彼の使徒職は復活者キリストから直々に与えられたものである、というパウロの理解があります。もっともじっさいには、迫害時代に尋問したキリスト者たちから、回心直後にダマスカス教会の指導者アナニアから、後にエルサレムに訪ねたペトロと主の兄弟ヤコブから、また長年滞在したアンティオキア教会から――パウロはイエスに関するさまざまな伝承を入手していました。

 ペトロからパウロに至る顕現の期間は、使徒行伝が前提する「40日」(使徒1,3)よりも長期に亘ります。一年以上の時間が前提されているかもしれません。パウロが自分が顕現証人の「最後」であるというのも、もしかしたら今のところそうだという含みなのかもしれません。

VI

 続いてパウロは、自らの迫害者としての経歴を補って余りあるものとして、「神の恵み」を提示します(10-11節)。

しかし私は、神の恵みにより(今の)私である。そして私に対する彼(神)の恵みは、虚しいものとして生じなかった。むしろ彼らすべて(=上記の顕現証人たちすべて)以上に私は労苦した。しかし私でなく、私と共にある神の恵みが(労苦した)。したがって私であろうと彼らであろうと、そのように私たちは宣教する。そしてそのように君たちは信じた。

 パウロにとって「恵み」はキリスト者すべてに与えられるものです。しかし彼が自分との関係で「恵み」について語るときは、つねに使徒職のことが念頭にあります。それゆえ、この恵みは宣教者としての「労苦」と結合しており、労苦する主体は「私」であると同時に、「私と共にある神の恵み」です。

 「私に対する彼(神)の恵みは、虚しいものとして生じなかった」という発言には、経験の蓄積がうかがわれます。彼はAD31/32年ころに回心したのち、すでに23-24年間の宣教経験があります。彼がその間の労苦を「恵み」として経験してきたと言うことは、その間も復活信仰が維持されたことを示します。

 「そのように私たちは宣教した。そしてそのように君たちは信じた」とあるときの「君たち」、すなわちコリントス共同体のキリスト者たちの中に、キリスト顕現に接した人はおそらくいません。では、パウロとコリントスのキリスト者たちの復活信仰をつなぐものは何でしょうか?

VII

 ここで、すでに私たちには親しいひとつの詩を再びご紹介します。

きりすと
われによみがえれば
よみがえりにあたいするもの
すべていのちをふきかえしゆくなり
うらぶれはてしわれなりしかど
あたいなき
すぎこしかたにはあらじとおもう
八木重吉『春の水』より

 キリストは「わたし」によみがえる。それは、単なる主観的な思い込みを超える内面的な経験です。それなしに、例えば偉い人がそう信じているそうだからといった理由から復活信仰をもつことは、私たちにはできません。それはパウロが自らの使徒職を、神学校を卒業したとか教師検定試験に合格したとか、あるいは教会総会で招聘が可決されたとかといった制度的な保証の彼方の、キリストとの出会いの中に根拠づけていることに類比的です。

 そのとき、「よみがえりにあたいするもの」は、「すべていのちをふきかえしてゆく」。この体験の積み重ねが、復活信仰を維持します。このことを少し薄めて、世界に働く創造的な力をそのつど経験することが、復活信仰を支えると言ってよいでしょうか。そのとき、わたしの過去の生の意味が変わります。「うらぶれはてしわれなりしかど/あたいなき/すぎこしかたにはあらじとおもう」。詩人は病弱であったと聞きます。パウロは生まれそこないのキリスト者である自分にとって「私に対する彼(神)の恵みは、虚しいものとして生じなかった」と言います。

 しかしそれだけでなく、復活信仰は私の「現在」の経験にも大きな変化をもたらします。パウロ自身の言葉を引きましょう。

(私たちは)惑わす者たちとして、かつ真実であり、
知られていない者たちとして、かつ承認されており、
死にゆく者たちとして、かつ見よ、私たちは生きている。
躾される(=罰を受ける)者たちとして、かつ殺されておらず、
悲嘆にくれる者たちとして、しかし常に喜びつつ、
極貧者たちとして、しかし多くの人々を富ませつつ、
何も持たない者たちとして、かつ万物を保持しつつ。
コリント二 6,8b-10

 復活信仰を生きるパウロは、現実世界で大成功の人生を送っているわけではありません。そうではなく、かなり「労苦」しています。つまり客観的には彼は、「惑わす者たち」「知られていない者」「死にゆく者」「躾される(=罰を受ける)者」に他ならず、また「悲嘆にくれる者」「極貧者」そして「何も持たない者」の一人に過ぎません。そしてそのような者として、「かつ」神の恵みにあって、復活信仰を与えられた者として「真実であり」「承認されており」「生きており」「殺されておらず」、むしろ「常に喜びつつ」「多くの人々を富ませつつ」、否それのみならず「万物を保持しつつ」歩むのです。

 このとても不思議な二重性の中で、復活信仰は維持されてゆくのだと思います。


 
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