2019.05.26

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「私の主」

松原 新吾

ヨシュア記1,5-7テサロニケの信徒への手紙一5,16-18

(1)

 父は生きていれば108歳 明治44年生まれです。母は大正6年生まれです。昭和15年に二人は結婚し私は昭和19年に生まれました。8畳と6畳の狭い間取りで玄関にガラス引き戸・トタン屋根の時々雨漏りのする借家でした。テレビ、洗濯機、電話はありません。便所は汲み取り式、水道はなく井戸です。父は育ち盛りの私たちにたっぷり牛乳を飲ませようと子山羊を買ってきました。山羊の餌の草刈りや散歩、小屋掃除などは私の役目です。我が家で飲み切れないので欲しい人へ配達に行くのも私の役目になりました。子供心に満足できる楽しい我が家でした。貧しかったにも拘わらず、それを切実な問題と思うことはありませんでした。

 「真面目に一生懸命生きていけば何も心配することはない」と 父の背中をみて知りました。

 私は高崎商業高校を卒業して東京の酒類食料品問屋に就職いたしました。会社の寮にはいりました。寮は新宿区四谷坂町にありました。市ヶ谷の自衛隊の近くです。東京へ来た翌年法政大学二部に通い始めました。夏頃母の便りに父の体の具合が良くない旨が記されていました。12月18日に逝きました。父の死について、その時は何でこんなにも早くと思ったものです。この『証し』に際し、父の一生をたどってみました。大変な時代でした。自身について語ることはありませんでした。

 私が19歳、弟が16歳、13歳、10歳の3人いました。私が高崎に帰って長男の役割を果たすべきとは思いましたが、やっと慣れた東京の生活に見切りを付けられませんでした。

 父がいなくなって悲しみがこみあげてきました。私の心に穴があきました。あらゆる角度から自分を調べ、客観的に自分を理解したいと思いました。自分の存在理由は何か。自分の努力ではどうにもならない社会、これから先どのように生きていったら一番いいのか。そんなことを考える日が続きました。

 元々ないところ闘病半年、家族に待ち構えていた貧しい現実。5年の辛抱、その先は明るくなる。それまで頑張るしかない。家族励まし合いながらの生活でした。手紙でのやり取りでした。何度も何度も顔を思い浮かべながらその手紙を読みました。

 私の新入社員の初任給は11500円でした。そこから寮の食費、高崎への仕送り、昼食代、授業料、背広の月賦代、貯金等を引きゼロになるようにします。ある時は給料の日に昼食代が無くなってしまいました。寮に帰れば夕飯が待っているので我慢したこともありました。収入が決まっていますのでどこかで支出が増えれば赤字になります。私にお金を借りるという発想はありませんでした。つまり収入の範囲で生活をするということです。

(2)

 教会に初めていったのは20歳の誕生日が過ぎて間もない4月19日でした。通学のため教会の前をかよっていました。飯田橋駅前にある富士見町教会です。前から一度行ったみたいと思っていたので自然と足が向きました。自分にとって何か良いもがあるような気がしたのです。

 教会は年配の方がほとんどでした。説教は 「罪と苦しみ」 でした。機会があればまた行きたいと思いました。その時は、何気なく寄ったのですが、神の見えざる御手に導かれて連れていかれたのです。今思うのですが父の死と私が教会に行くようになったのと何か関係があるように思えます。偶然とは思えない何かの力が働いているような。

 その頃の教会の通用口は管理人の部屋の前を通って行きますが、居ないことが多く居ても声をかけられることはありませんでした。礼拝で眠ってしまうことも度々でしたが、誰もいない広い礼拝堂で一人祈ることもありました。主日礼拝(朝) 夕礼拝(夕)等なるべく行くようにしていました。行き始めてから3年8か月、クリスマスに洗礼を受けました。 信仰が深まったからとか、これだけ理解したからとの理由ではありません。この神について行こうと決心したということです。

 受洗の翌年一月、寮母さんから(養子縁組)お見合いの話がありました。酒屋の二人娘の長女のかたでした。私は人を見る目もありません。見合いは私には好ましいと考えました。私は寮母さんを信頼していたので相手の女性も信頼できました。祈りのうちにいろいろな問題が解決してゆきました。最後に残ったのが信仰です。私の信仰は非常に心もとないもので、信仰を持たない人と結婚してどうなるか不安でした。私はその事を牧師に相談し、何日も繰り返し祈りました。神は私に結婚することを選ばせました。家族は祖母、父、母、妻とその妹と私の6人でした。一年間は今まで通り勤めを続けました。

 翌年の3月に酒問屋をやめ家業の酒屋に入りました。はじめの頃、休みは月に1日と15日だけでした。日曜日を定休にするまで20年経っていました。12月は休みなしです。クリスマスの礼拝にはそれから15年、閉店するまで行けませんでした。ある年、クリスマスキャロリングの一隊が我が家の横で歌ってくれました。居ても立っても居られない嬉しさに襲われました。私にとって夢に見たクリスマスでした。

 ほとんど礼拝に行けなかった20年でしたが、希望を持ち続けることが出来ました。今日の讃美歌もそうですが讃美歌には慰められました。水曜日に志道者会という集会がありそれに出席するようにしていました。ハイデルベルク信仰問答やウエストミンスター信仰告白をテキストに、解説して後半に懇談します。司会と進行係は出席者が交替です。10人から20人ぐらいで礼拝とは違った親しみのある会でした。

 受洗してから10年くらい自分から私はクリスチャンですと言えませんでした。

 信仰のゆえ大きくなる悩みがありました。私は洗礼を受けたからと言って何も変わっていませんでした。相変わらず短気で自分の主張が正しいと押し通す。感情の起伏が大きく恐れるものは何もなくなります。また、ある時は悲しく落ち込んで何をする気力もなくなるといった具合です。他人は私をみてクリスチャンとはこんなものかと躓きになると思いました。こんな心持で過ごしていたのです。

 ロマ書 7章21〜25にあります。 『善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気付きます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのがわかります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。・・・このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。』 つまり自分をいくら見つめて、罪を掘り起こしてもきりがないのです。それより神様を仰ぎ見て、祈ることに気付きました。

(3)

 下の娘の結婚に関しては非常に苦しみました。相手の方はガーナから日本に来た人です。その方はクリスチャンですが良い悪い以前に、あまりに遠いところの他人で何がなんでも反対しました。黒人ということ。まだ職業がはっきり決まっていないこと。差別していたのでしょう。今思えばもっと話し合えばよかったと考えられるけれど、その時は心のゆとりがありませんでした。娘は飛び出すように家を出て行きました。一日が終わり床に就くと悲しくて妻と涙を流す日が続きました。

 3ヵ月が過ぎました。神は私の頑なな心を溶かしてゆきました。いつまで反対することは神のみ旨でないことに気付きました。今ではよい家庭を築いています。娘の聡子は10年ほど前に、孫の菜々は4年まえに受洗致しました。私と妻は洗礼式に立ち会うことができました。式の間その周りでずっと讃美歌を歌っていました。 ヨハネ3章3〜5『 だれでも水と霊から生まれなければ神の国に入ることはできない。』本当に嬉しかったのを忘れません。長年の夢であった信仰の跡継ぎが出来ました。

(4)

 2003年秋閉店の決心を致しました。眠れぬまま夜明けを待ち教会に行きました。村上先生に思いを伝え祈っていただきました。溢れる涙をふき穏やかな気持ちになり帰ったのを覚えています。

 酒屋を閉店したのが2004年1月でした。閉店までの10年間は非常に厳しいものがありました。日曜日も教会から帰り一休みして4時頃から店を開けます。売り上げの減少がどんなに頑張っても止まらないのです。私はノイローゼになりました。あの頃から世の中が変わったと感じました。自分の努力ではどうにもならないことがあるのです。もう少し売り上げを伸ばし息子に継がせるのが夢でした。それも叶わぬこととなりました。酒屋に養子にきたからには最後まで責任を果たしたかった。だから後10年続けたいとおもいました。それも叶わなくなったのです。仕入先、お客様、地域の方々に最小限の迷惑で済ませたいと努力いたしました。そうでないとここ上原に住めないからです。建物新築の借金が返済にあと10年かかることもありました。閉店後の私の仕事の事もありました。閉店の時はあらゆる面で教会の方々に助けていただきました。

 60歳の誕生日前日に就職がきまりました。私の第2の青春の頃44歳の時 土地家屋調査士試験に合格していました。それを神様は覚えていて下さいました。調査士を求人している会社に応募してすぐに入社が決まったのです。閉店後の賃借人が決まり、こんなにスムーズに事が運ぶなんて想像もしていませんでした。これは神様の前々からのご計画でありました。礼拝に出席ができるようになりました。この様なかたちで夢が実現するとは、祈りが聞かれるとは思ってもいませんでした。

(5)

 教会の門をくぐり55年、神様の恵みのうちに活かされて過ごせた事を改めて感じます。迷子になりそうなときに、分かれ道に、困難に出会った時に、非常に疲れたとき苦しい時にいつもイエス様は共にいて下さいました。

 若き日に主を覚えよとありますが、わたしは思います。主に出会う時。それが若き日となるのです。祈るとき神はすぐ近くにいらっしゃるのです。願いを聞いて下さるのです。それは私の思いを超えて実現するのです。素晴らしいことです。いつも感謝しなさいの意味が最近分かってきました。今までのすべてのことが私にとって益であると感謝をもって受け止められる昨今です。気にかけて下さる多くの方々に感謝申し上げます。非常に恵まれた事と思います。

 教会学校では月のはじめ、その月に生まれた子どもの誕生日を祝い歌います。一番の歌詞は「生まれる前から神様に守られてきた友達の誕生日です、おめでとう」二番が「生まれて今日までみんなから愛されてきた友達の誕生日です、おめでとう」私はこの歌詞のとおり本当に神様に護られてきたことに感謝いたします。それも生まれる前からということは、私の父と母が含まれるということです。そしてイエスさま、はじめ多くの方々の執り成しの祈りに感謝いたします。私が今ここにあるのは神様のお恵みのお蔭です。

 今日の聖句です テサロニケ第一 5章16〜18です。「 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。 」 私は生まれてきてよかったと心から思います。甦りのイエスさまが私と共にいて下さるから。共にいるということは、私の中に主が住まわれることです。神に生きる命とは、なんと幸いなことでしょう。

祈ります
我が主なる神様、週の初めあなたへの礼拝で始められる幸いを感謝申し上げます。すべての人にあなたの平和が訪れますように切に願い祈ります。ご事情がありこの礼拝にいらっしゃれなかった方を思います。その場にあってあなたの祝福が豊かにありますように。 私たちの主イエス・キリストの聖名によって祈ります。


 
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