2019.06.16

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「非戦論の根拠」

田中 健三

イザヤ書2,1-5マタイによる福音書26,47-52

 戦争を是とするか非とするかという思想について、キリスト教は決して一筋縄ではいかない多様な立場をとってきました。例えばキリスト教思想史上燦然と輝くトマス・アクィナスは、やむを得ない場合には戦争は認められるという「正戦論」を13世紀に主張しています。

 非戦論を唱えた人物として有名な内村鑑三も、当初は正戦論(内村は「義戦論」と言った)でした。日清戦争を神の御旨に叶う戦争だとして、そのことを公に述べていました。ところが内村は日清戦争後直ぐに、正戦論から非戦論に自らの主張を変えるに至ります。1897年には、自分の主張は間違っていたと猛省する文章を記しています。その後、正しい戦争などない、いかなる戦争もするべきではないという「非戦論」を堅く維持していきます。「平和は決して否な決して戦争をとおして来りません。平和は戦争を廃して来ります。武器をおくことこれが平和の始まりであります」(「平和の福音」1903年)と述べています。

 ところで内村はなぜ正戦論から非戦論に変わったのでしょうか。その理由を彼は端的に次のように記しています(「余が非戦論者となりし由来」1904年より要約)。

 第一に聖書に基づく。聖書全体の精神、特に新約聖書によってそれは支持される。具体的にはマタイ5,95,38-3926:52-54ローマ12,18-21などです。

 第二に自分自身の実体験による。彼は第一高等学校の教師だった際の学校行事の折に、教育勅語に深く頭を下げなかったといういわゆる「教育勅語事件」を初め、様々な「事件」の当事者となってきた「戦いの人生」を送った人でしたが、それに対処する基本的態度は「無抵抗主義」だったと述べます。そして「敵」に対するそのような無抵抗の姿勢が、結果としては最善の結果をもたらした、と述懐します。

 第三が過去10年間の世界史です。つまり日清戦争やアメリカ・スペイン戦争の成り行きやそれらの戦後のあり様を客観的に判断すれば、戦争を行ったことは、政治的にも経済的にも社会的にもマイナスであったと結論付けるほかない、というのです。

 第四は内村が長年講読していたアメリカのある新聞の社説の影響です。The Springfield Republicanという新聞は絶対非戦主義を社是としており、内村はそれに対して今まで無関心であったのが、講読しているうちに、その意見に感化されるようになったのです。

 これらをまとめると内村の非戦論の根拠は、[1]聖書 [2]自分についての実体験 [3]世界の実体験 [4]他者の意見、ということになります。ここで特に注目すべきなのは、[2]と[3]であり、戦争というものが是か非かということは、事実によって検証できる、ということです。つまりイデオロギーや信条の問題であるだけでなく、現実問題として客観的に議論し、判断することができるということが重要な指摘です。

 非戦論は実利がある、という視点は極めて大事だと思います。それはオープンに検証できることであり、最近では1990年の湾岸戦争を始めたことにより、その後2001年の9.11の一因となり、現在に至るまでその影響は多方面に亘る莫大なる損失をもたらしています。これを具体的数字に基づいて提示し、人々の目に見える形にすれば、戦争を始めることに大きな歯止めとなるはずです。

 では万が一他国から攻撃されたらどうするのか、という問題提起に対しても、具体的実例によって、議論し判断できる事柄ではないかと思います。

 今日本では辺野古沖にアメリカ軍の軍事基地を建設していますが、これは思想、信条の問題であるとともに、極めて具体的な可否の問題です。このことによって国際政治上、経済上、そして生態系上どういう影響を及ぼすのか、トータルとしてプラスなのかマイナスなのかを冷徹に考えなくてはならないと思います。何よりも今注目されているのは、そもそも技術的にあのような地盤のやわらかい海底に滑走路を造ることができるのか、その完成のためにどれだけの費用が掛かるのか、ということです。技術的に見て、極めて困難であることが徐々にわかってきました。

 第二次世界大戦の日本を振り返ると、冷静な実証的な判断を思考停止してしまい、とにかく一度始めてしまったものは何としてもやるのだという依怙地さが悲劇を大きくしたようですが、そのような精神性は今も続いているように思えます。

 6月は沖縄戦を記念する月ですが、沖縄での大きな悲劇、そしてその後の広島、長崎への原爆のことを直視するならば、「日本は一度滅んだ」ということに気付かされます。私は一昨年の8月に妻と長崎に行き、原爆の爆心地だとされている場所に立ったのですが、その時実感したのが「ああ日本は一度滅んだのだ」ということでした。

 日本の世界における役割ということを考えるときに、このことを出発点としなくてはならないように思えます。日本が今生かされていることに意味があるとすれば、それは平和について世界に貢献する使命があるということではないでしょうか。そしてその点について日本は国際社会における名誉ある地位を占めるべき国だと思うのです。核爆弾の被爆国であり、憲法9条には「非戦」「非武装」が宣言されており、また日本の地政学的な位置も現在の国際平和上、重要な意味を持つと言えるでしょう。

 日本が平和問題について世界で役割を果たしていくことは、実際には思想、信条の論争としてではなく、実証的な働きとして行っていくことですが、その「原動力」となる思想いうことを考えた時に、キリスト信徒の価値は重要であると思えます。

 本日読んでいただいたイザヤ書2章1-5節は、その一部がニューヨークの「国連広場」と呼ばれる場所の壁(「イザヤの壁」と呼ばれている)に刻まれています。但しそれは宗教色を除いた4節後半部分が取り上げられているのは無理もないことでしょう。しかし4節後半に記されている非戦平和の理想と、4節前半に記されている「世界を支配し、裁く神の存在」は密接不離だとするのが聖書の思想です。そのような神が存在することが平和問題の解決に向けての原動力となるということです。

 言葉を換えて言うならば、神の支配は「この世は悲惨にみちており、弱肉強食である」ということのアンチテーゼです。絶望に対抗する希望の思想です。ここでは戦争については実証的に議論できる問題であるとは別の次元が提示されています。

 内村は「戦争廃止に関する聖書の明示」(1917年)という文章の中で次のように述べてます。「やむやまないの問題ではない、正か不正かの問題である。義か不義かの問題である。しかして戦争は不正である。不義である。罪悪の絶頂である。故に非戦を唱うのである」また「信者が非戦を唱うるは現世において非戦の行わるべきを予期するからではない。その神の好みたまう所なるを信ずるからである」と。

 神と向き合い、「大いなる肯定」につつまれて、この世を「神のしもべ」として感謝して生きていくのがキリスト信徒であるでしょう。戦争廃止について、キリスト信徒は特に日本の信徒は重要な使命を神から担わしめられており、そうだとすればそれは大変光栄なことでもあります。20万人の命が失われた沖縄戦を想起する6月に、今一度主の御前に頭を垂れ、主の望まれる道を探りつつ、歩んでいきたいと思います。


 
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