2019.08.18

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「キリストの共同相続人」

廣石望

ホセア書 2,1-3ローマの信徒への手紙 8,12-17

I

 私たちは神の前で何者なのでしょうか? キリスト教に特徴的な神の経験、または神を経験することから生まれる自己自身の経験とは何でしょう?

 教会教派の違いによって、また人の歩んできた道によって、この問いに対する答えは様々でしょう。例えば、神の恵みから生きる者、義認された罪人、神に愛される子ども、我がうちに住まう聖霊に導かれる者、悪しきこの世から救い出され聖化の道を歩む者、神との新しい契約に生きる群れの一人、キリストの兵士など。

II

 使徒パウロはローマの信徒への手紙6-8章で、古代世界の家族にまつわるイメージを使って、キリスト者の新しい身分について語ります。「奴隷」と「兵士」が主人を換える、妻が夫の死を介して再婚する、あるいは奴隷が養子化されることで新しい養父の息子となるといったイメージです。

 現代日本には、幸いなことに奴隷制度はありません。兵士は、自衛隊というかたちでいると言えるでしょう。夫たち、妻たちはいます。養子は数としては少ないかもしれませんが、例えば夫が婚家の姓を名乗る婿養子などはそれなりにいるでしょう。

 私が育った地方の田舎では、本家と分家、長男と次男、娘と嫁、嫡出児と非嫡出児などの様々な区別がそれなりにあり、世間の扱いが違いました。都会で働く場合も、日本は男女差別が非常に厳しい国のひとつですし、会社によって社員の扱いは違うでしょう。さらに、就労所得のない人にとって、婚家との折り合いやパートナーとの相性の良し悪し、そして誰の財産を相続するか、あるいは相続を放棄するかなどは大きな問題であろうかと思います。

 そうした「家族生活」に近づけて、パウロはキリスト者として生きること、つまり私たちが神の前で何者であるかを主題化します。

III

 まずパウロは、兵士ないし奴隷が「主人を換える」という比喩を使います(ローマ6,12-23)。以下のような発言が、信仰者を「兵士」のイメージで捉えています。

罪でなく神に、自分の五体を武器として提供せよ。
君たちは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るかのどちらかだ。
罪が支払う兵士給与は死だが、キリストは永遠の命を支払う。

 これに対して、以下のような発言では、信徒は「奴隷」に準えられています。

穢れの奴隷から義の奴隷になった君たちは、今や聖なる生活を送る。

 つまり「罪」「穢れ」への隷属から、「神」ないし「義」への隷属へという身分変更が、キリスト者の特徴なのです。兵士と奴隷のメタファーが併用されるのは、古代世界で兵士が戦争捕虜になると、たいてい奴隷にされたからです。

 古代世界の兵士にとって武器は支給されるものでなく、個人の私物でした。兵士は主人を自由に選べます。しかし16-28年間の兵役義務があり、厳格な軍隊規律に服します。また奴隷と違い、年に3回、給与が支払われます。兵士にとって「死」は、兵役に基づく給与として最悪の可能性です。

 他方で、古代都市の人口の過半数が、奴隷か解放奴隷であったそうです。奴隷は、自分から自由に主人を選ぶことができません。売買の対象だったからです。家畜のことをギリシア語で「テトラポドン(四つ足)」とも言いますが、奴隷は「アンドロポドン(人間足)」と呼ばれました。人間の姿をした家畜という意味ですね。

 それゆえ奴隷の境遇は、生殺与奪の権をもつ家父長がどのような人であるかに、大きく左右されました。経済的な困窮から脱するために自らを奴隷に売るケースも、まれにありました。そうした場合は、もちろん誰を主人とするかが非常に重要になります。

 こうして、兵士の比喩も奴隷の比喩も、人は自分以外の誰かの権威の下にあるという発想が基本です。その意味で、近代人権思想にいう独立自尊とは異なります。それでも現代企業で従業員、とりわけ自分の部下たちを指して「兵隊」と呼ぶことはありそうです。「家畜」ならぬ「社畜」という言葉は、確かにあります。

IV

 続いてパウロは、夫が死去した女性の新しい婚姻について語ります(7,1-6)。ここでの主題は「律法」からの離脱であり、新しい夫の位置にくるのが「キリスト」です。

 〈夫が死ねば、妻は夫の下にある者として夫に縛られているという法は無効となる〉とは、基本的に家父長制的なものの言い方です。妻の側の離婚権が想定されていません。さらに「結婚した女」(7,2)と訳される「結婚した」の原語は「夫に下属する」であり、夫に妻が従属するという社会的実態が前提されています。

 その上で、次のように言われます。

君たちは、キリストの身体を介して、律法に(対して)死んだ者とされた。君たちが別の者、(すなわち)死者たちから起こされた者に(属する)者たちになるためだ――私たちが神に実を結ぶようになるために。

 ローマ法でもユダヤ法でも、妻は夫の死後しばらくの間は喪に服す義務があり、直ちには自由になりません。また統計的に、女性は生涯で平均して1-2度は寡婦になったようです。また夫の死は、現代女性にとってとは異なり、古代においては自由ではなく、たいてい社会的没落を意味しました。生涯一人の夫に仕えた妻はラテン語で「ウーニウィラunivira」と呼ばれ、褒め言葉として墓碑に刻まれています。

 さてパウロが、かつての夫である「律法」と死別し、キリストと再婚するというとき、律法に対するキリスト者の自由の強調です。ユダヤ民族の伝統的慣習にもはや拘束されない生活様式と結婚し、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、今や「神に実を結ぶ」というのが共通の新しい生活が始まります。

V

 最後にパウロは、神の前で私たちは〈奴隷から息子身分への養子化された存在〉だと言います(12-13節)。

私たちは、まさか肉に従って生きることを、肉に対して負うているわけではない。君たちが肉に従って生きるなら、君たちは死ぬが、身体の様々な実践を君たちが霊に死なせるなら、君たちは生きるであろうから。

 日本では「養子」は伝統的に、家族の中で「嫁」以上に肩身が狭いと言われる存在の代表です。しかしヨーロッパでは、異人種の養子を育てる事例が多くあります。肌の色の違う子どもたちが家族というケースがざらにあるのです。日本は、血統を重んじる傾向があるのでしょう。

 パウロによれば、この血統主義は「肉に従って生きる」ことに分類される可能性があります。「肉」とは、私たちの個々の特性や有限性のことです。その限界に従って生きる義務は、キリスト者にはない。なぜでしょうか? 私たちが、神から死を克服する新しい命を受けた復活者イエスに属する者たちだからです。

 私たちが自らの限界を生きる根拠にするなら、その限界が来たときに死にます。しかし、キリストを死人たちから起こした神の霊の力(創造性)を根拠に生きるなら、私たちは自らの限界を超えて生きるでしょう。つまり、あるがままに評価される以上の、神の創造性を受け取ることで開かれる可能性が私たちの生の根拠です。

 「身体の活動を死なせる」という表現がどういう意味であるかについて、多様な理解があります。おそらく「身体の活動」とは、ここでは「肉に従って生きる」こと、霊に基づかない生き方のことではないかと思われます。

VI

 次にパウロは、養子化を通して、私たちは神の息子たちであると言います(14-17a節)。

神の霊に導かれるすべての者たち、その者たちこそ神の息子たちであるから。再び恐怖に至る隷従の霊を受けたのでなく、養子化の霊を君たちは受けたのだから――その(霊)によって、私たちは叫ぶ、「アッバ、父よ」と。同じ霊が、私たちが神の子らであることを、私たちの霊とともに証言する。しかし、もし子らなら、相続人たちでも(ある)。神の相続人たちである一方で、キリストの共同相続人たち(である)

 古代世界における解放奴隷は、さほど自由ではありませんでした。元の主人に尊敬を払い、貧困化したら養育し、老後は介護する義務があり、主人の意思次第で再び奴隷身分に引き戻される可能性がありました。

 パウロが用いる「養子化」(ギリシア語hyiothesia)という表現は純粋な法律用語で、宗教的な使用事例はここが初出です。ローマ法の術語としてそれは、自決権を持たない(家父長でない)男子(奴隷でも良い)を家父長権から解放し(emancipatio)、法務官立会の下で、別の家父長の支配下に置くことを(vindiactio filii in potestatem)意味しました。養子は実家との法的つながりをすべて喪失する一方で、新養父の実子たちと同じ相続権を獲得します。

 多くの場合、家父長が自分の影響力アップを図るために養子はとられましたが、パウロの強調点は、奴隷身分の者が自由身分と相続権を獲得することにあります。信仰者たちは、神の息子である復活者キリストの「霊」に導かれることで「神」の、つまりイエスの父の「息子たち」になります。

 そうすることで私たちは、奴隷に特徴的な「恐怖」から解放されます。古代の文献には、「奴隷たちは恐怖から何がしかの正しいことを行うが、自由人たちは名誉心から善をも行う」、「肉による主人たちに、恐怖と戦慄を持って聴従する」といった描写が現れます。息子身分を得た者たちは、この恐れから解放されます。一般化すれば、他人の支配や評価を怖がらずに生きてゆけると言えるでしょうか。

 この恐れなき存在のあり方を基礎として、神との関係は「家族化」されます。つまり「神」は新しい養父、「聖霊」はその養子化プロセスの保証人――じっさいの養子化では法務官が果たした役割――、そして「キリスト」は神の長子として信仰者たちの長兄であり、信仰者たちはその共同相続人です。

 こうして信仰者たちは、互いに等しい相続権を持つ姉妹兄弟たちになります。その結果、共同体の外の世界ではじっさいに存在する出身民族の違い、社会身分の違い、貧富の差、男女の違いが覆い隠されます。古代世界には、教会と同様に自由参加形式の、しかも家政に似せて組織化された任意団体が多く存在しました。しかし、そこでは血族が中心に位置し、親族でない者たちは周縁にいました。つまり権威構造は同心円的でした。これに対してパウロのイメージでは神以外の全員がフラットな「息子たち」です。より正確にはイエスだけが実子で、他は全員が養子です。

VII

 最後に重要な付加があります。

ともに栄光化されもするために、私たちがともに受苦するのなら。(17b節

 「ともに苦しむ」のモデルは長兄であるキリストの生前の苦しみです。これがモデルとなって新しい家族の共同相続人たちは、等しい身分の娘たち・息子たちとして、社会身分の違い、男女の違い、年齢の違いなどに基づく「恐怖」――それは相手を侮辱したり威嚇したりして、萎縮させたり恐がらせたりすることを含みます――を超えて、互いの苦しみを分かち合い、担い合います。これがキリスト教共同体の、古代にあっても現代にあっても鮮明な特徴です。


 
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