2019.11.10

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「忍耐して待ち望む」

廣石望

詩編39,5-10ローマの信徒への手紙8,18-25

I

 昨日はベルリンの壁の崩壊30周年の記念日でした。ベルリンの壁は1961年8月から1989年11月9日まで存在しました。壁は資本主義と共産主義という政治体制の対立を象徴する存在であり、やがてそれが崩壊するときが来るとは、当時あまり想像できませんでした。最初にハンガリーがオーストリア国境を開きましたが、そのハンガリーが30年後の現在は、難民に対してたいへん排他的な政策をとっています。ドイツを含むその他のヨーロッパ諸国でも右派勢力が台頭しています。その人々はしばしば「キリスト教」をもちだしますが、その多くは教会に通う人たちではありません。彼らがキリスト教というとき、それは反イスラームという態度の表明であり、今度は政治制度の対立に代えて、文化対立という意味での外国人憎悪があるように見えます。

 もしかすると、30年前のベルリンの壁の崩壊と、現在のヨーロッパ諸国に見られる右傾化の両方に、〈私の幸福を今ここで完成させたい〉という願いが共通しているかもしれません。この願いがよい潮流を生み出すことも、あるいは必ずしも好ましくない傾向をも作り出すこともあるのでしょう。

II

 本日、私たちは召天者のための記念礼拝を祝うために集まりました。もうすぐ待降節(アドヴェント)を迎えるこの時期、教会暦は「年末」に当たります。そのような季節に、自らの終わりを自覚しつつ、信仰の先人たちを想起するのがキリスト教会の習わしです。

 〈私の幸福を今ここで完成させたい〉と願うとき、愛する者との別れは、この願いに限界があることを、私たちにまざまざと突きつけます。私自身の死であればなおさらです。それは家族や親族との別れに限りません。例えば同性愛その他の、法律によって保証されていないカップルの場合、パートナーの死に目に病室に入れてさえもらえないという状況があることについて、私たちはつい先日聞いたばかりです。

 そのとき、パウロ書簡から選ばれた本日の聖書箇所でいう「呻き」が私たちをとらえます。いっしょに生きようと願っていた命のつながりが絶たれるとき、私たちは呻きます。

III

 パウロの発言は、〈今は未完の時である〉という認識が基礎的です。

 ところが、彼がこの書簡を書き送った先の帝都ローマには、〈今こそ完成の時である〉というプロパガンダがありました。書簡執筆の約半世紀前の紀元前17年、皇帝アウグストゥスは百年祭と呼ばれる祝祭を挙行し、失われた古の黄金時代をローマ帝国が今こそとりもどすと宣言したのです。ローマの支配の下で、世界はようやく平和と繁栄を取り戻し、自然の豊かな恵みが、神々からの祝福としてローマに注がれるとされました。そのことを記念する立派な祭壇が、軍神マルスの野に築かれました。そのレリーフには、女神ローマが立派な母親の姿で描かれ、両の膝の上には子どもたちがいて、周囲には家畜や果物や植物が描かれています。「私たちはリッチだ!」という意味です。こうした演出は、〈私の幸せを今ここで完成させたい〉という人々の願いにアピールしたことでしょう。 これに対してパウロは、「全被造界が今に至るまでそろって呻いている」と言います(22節)。そして「私たちに啓示されるであろう来るべき栄光」について(18節)、そればかりか「被造界の待望」について、すなわち被造世界が「腐敗の隷従から、神の子らの栄光の自由へと解放されるという希望」(21節)について語られます。パウロの理解によれば、この世界は未完成なのです。

IV

 この世界が未完成であることのしるしを、パウロは「虚無」に見ています――「被造界は虚無に下属させられた」(20節)。この言葉は、同じローマ書簡の最初の方にも現れます。

神の不可視的ものごとは、世界の創造以来、造られた物々に洞察可能なものとして見てとれる――すなわち彼の永遠の力と神性は。こうして彼らに弁解の余地はない。なぜなら神を知りつつ、彼らは神として讃えず、あるいは感謝せず、その議論の中で虚しくされ、その理解なき心は闇とされた。(ロマ1,20-21

 「虚しくされ」という部分が「虚無」と同じ語根の言葉です。この発言は、ユダヤ人パウロが異教徒を論駁する文脈にありますが、似たような別の反駁をパウロはユダヤ人にも向けます。つまり虚無は万人に妥当します。そしてこの虚無が、被造世界の「呻き」をもたらすのだと思います。

 そのさいパウロは、自分だけが他者の「呻き」から自由であることを望みません。彼はまず「全被造界が今に至るまでそろって呻き、そろって生みの苦しみの声をあげている」と言ったうえで、「それだけでなく、霊の初なりをもつ者たちもまた、(すなわち)他ならぬ私たち自身もまた……待望しつつ、自らの内で呻いている」と述べて、キリスト者がこの世の生きとし生ける命の呻きに連なると言います(22-23節)。キリスト者は「呻き」を通して、全被造界の「呻き」に連帯します。そこには、私が「あんな奴」と思うような人々の呻きへの連帯も含まれるでしょう。

V

 なぜ、「呻き」による連帯が可能なのでしょうか? それはこの呻きが、ひとつの共通の「希望」の下にあるからです。

 キリスト者は「私たちに提示されるであろう来るべき栄光」(18節)という希望の下にあります。それは「養子化、すなわち私たちの身体の解放」という待望(23節)です。「養子化」とは、古代社会にあって奴隷身分の者が新しい養父の息子とされたならば、自由身分である養父の実子たちと同じ相続権を得たのと同様に、私たちが神の息子であるキリストと同じ「息子」としての身分を、神から授かるという意味です。他方で「身体の解放」とは、同じく古代社会における奴隷の人身売買の習慣を背景に、神以外の何かに隷従していた私たちの身柄を神が代価を払うことで買い取り、自由にするという意味です。

 そしてこの待望は、キリスト者だけのものではありません。むしろ「被造界の待望は神の息子たちの啓示を待ち望んで」おり(19節)、神の息子たちの出現によって「被造界もまた、腐敗の隷従から、神の子らの栄光の自由へと解放される」と期待しているからです(21節)。

 こうした発言の背後には、世界の運命は人間にかかっているという発想があります。例えば、人間たちが悪事を重ねると天体の運行に狂いが生じるというように。現在、私たちの消費的な生活様式が原因となり、気候変動を含む環境に悪影響が出ていると言われています。すると、私たちが〈私の幸福を今ここで完成させたい〉という欲望から解放されて初めて、被造世界もまた、この欲望がもたらす「腐敗の隷従」から解放されるだろう、という意味のつながりが見えてきます。

VI

 被造世界が待望している「神の息子たち(/子たち)」の啓示、つまり神の子らの出現とはいったい何のことでしょうか。私に、いちばんしっくりくるのは「真人間」の出現、つまり神に導かれつつ、他の命とともに呻く人間たちの出現です。

 パウロは別の書簡で、キリストを「最後のアダム」と呼びます(1コリ15,45)。文脈そのものは復活のキリストについて述べていますが、この表現を、神に従う本物のアダムという意味に、つまり「真の人間」としてのキリストという意味に読むこともできると思います。その真の人間であるイエス・キリストと同じ姿へと、私たちは「呻き」を通して変えられてゆきます。

 先週の月曜日、美しい秋晴れの日に、多磨霊園にある私たちの共同墓地で納骨式が営まれました。私たちは、もう彼女のいない世界で生きてゆかねばなりません。それでも式の後に、ご遺族の一人が「彼女の笑い声が聞こえる」と仰いました。たしかに私たちは、もう彼女をわが目で見ることはできませんが、ご生前の明るい笑い声は私たちの胸にあります。それは、「見ていないものを私たちが希望するなら、私たちは忍耐をもって待望する」(25節)とパウロが言うことに通じていると感じます。

 
 
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