2019.12.01

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「目を覚ましていなさい」

中村吉基

イザヤ書2,1-5マタイによる福音書24,36-44

 12月に入り、今年もあと1か月を残すだけになりましたが、キリスト教会は一足先に、今日新年を迎えました。この待降節から新しい1年の歩みが始まります。「待降節」と日本語に訳されている言葉は「キリストの降誕を待つ期節」という意味です。ラテン語ではアドヴェントゥスADVENTUS、英語のアドヴェントAdventという呼び方は日本の教会でも馴染みが深いものですが、これは「到来」を意味する言葉です。しかし待降節というのは、ただただ2000年前にイエス・キリストがこの世界に来られたことをお祝いしているだけではないのです。浮かれ気分で救い主の誕生日の祝い事に思いを馳せる時でもないのです。

 待降節のもうひとつの意味はこの世の終わり(終末)に栄光に包まれたキリストが再び来られること(再臨)を「待ち望む」期節でもあるのです。すでに2000年前にこの世界にキリストをお迎えしました。そして今、キリストが終末に再臨される日を私たちは待ち望んでいます。これを「中間の時代」というのですが、私たちは今、中間の時代を生きているのです。待降節第1主日の福音書の朗読は毎年、クリスマスのことにはふれていないのです。「人の子」イエス・キリストが再臨される日を待つことのほうに重きが置かれています。そしてこの福音は「目を覚ましていなさい」という言葉が中心に据えられています。

 皆さんは日本がバブルの時代だった時のことを記憶しているでしょうか。それぞれにどんな印象を持っておられるでしょうか。私は日本全体が経済的に豊かになって「強気」になっていたイメージを持っています。お金の力で何でも屈服させてしまう。東京でもずいぶん「地上げ」されて立ち退きを余儀なくされた住民が大勢いましたが、文字通りふわふわしたというか、厳しさの無い、浮き足立ったそんな時代ではなかったかと記憶しています。

 そういう時には心の問題、精神を高めるというようなことが忘れられてしまいがちです。事実、日本の歴史を見ていても社会が不況になると、あるいは社会全体に不安を抱え込むと宗教などに人が集まってきます。「苦しい時の神頼み」でしょうか。第二次大戦後の日本の教会には「キリスト教ブーム」起こりました。教会がたくさん設立され、受洗者もたくさん与えられました。簡単に言うと、人間は好調な時、安泰の時そして豊かな時には、神さまのことを忘れてしまうのです。

 なぜバブルの時代のことを話したかというと、今日のイエスさまのみ言葉の中に、旧約のノアの時代の話が引用されているからです。ノアの時代に生きていた人々は、洪水に襲われることも、またそれがいつやってくるかについても気づくことがありませんでした。天災というものは得てしてそういうものでありますが、ノアの時代の洪水の場合、世界を滅ぼす洪水を引き起こせる神さまの力に、人々は無関心でありました。

 ここで「人の子」という言葉が出てきますが、これはイエス・キリストのことを表します。まず36節に「その日、その時は、だれも知らない。・・・・・・ただ、父(神)だけがご存じである。」その日、その時と言うのは終末の日についてのことです。そして続く37節で「人の子が来るのは」と始まり、終わりの44節では(人の子は)「思いがけない時に来る」と結んでいます。しかし、実はこの二つの言葉にサンドウィッチのように挟まれているところが大切な箇所です。

 ノアの時代、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりし平々凡々と暮らしていました。こういう平和な時代というのは歴史のどの時においてもそうですが、あまり神さまのことなどに人々は無関心になるものです。この時もまさにそうでした。人々は神さまのみこころのことなどは気にも留めないで自分たちの生活ばかりを優先し、勝手気ままな日々でした。神を信じていたノアだけはみこころをしっかりと受け取っていました。しかし、人は誰もノアの言葉にも耳を貸そうとはしませんでした。そしてあの洪水は突然やってきたのです。それは神さまだけが知っておられることでした。

 40節以降にはこのような譬えがあります。

「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。

 私たちの目には同じように映る二人の人も「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」のです。しかし神さまの目は節穴ではないのです。ごまかすことはできないのです。

 「そのとき」というのは人の子のあらわれる日のことです。しかしそれはいつのことなのか、どのようにやってくるのかはまったく判りません。先ほどの44節では「思いがけない時に来る」とだけ書かれています。ですからそのことは私たちの誰もが判りませんし、時々、世の終わりをふりかざして人を煽ったり、不安に陥れる人がいますが、人間にはそのようなことはできませんし、また努力をしてその時期を早めたり、金品を積んだりして遅くしたりするということもできません。救い主が来られるのは、まったくの神さまのみこころです。ですから私たちは注意深くまた、忍耐強くその時を待たなくてはならないのです。

 42節に目を向けてみましょう。

「だから、(1)目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことを(2)わきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも(3)用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 待降節は、私たちが注意深くまた、忍耐強く待つ姿勢を学ぶ時でもあります。

 「一寸先は闇」という言葉があります。しかしイエスさまは「一寸先は光」にだってできますよ、と教えておられるのです。これらの言葉は私たちを混乱させようとしているのではないのです。むしろその救いの時を、逃すことのないように強く語りかけているのです。

 今日の第1朗読は旧約聖書のイザヤ書の言葉に聴きました。イザヤは救いの日の訪れを「終わりの日に」と言っています。そしてたとえを用いて述べるのです。2節と4節を読んでみます。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。・・・・・・主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。皆が武器を捨てて、争うことを止めて、倒れるものは助け合い、一つ一つのどんなに小さなものでも分かち合い、共に生きる日が来るように、またそういう世界が実現するように、神から来る平和を待ち望んでいます。救いの日にはそれがすべて実現するのです。

 今日から始まる待降節は、あと一か月足らずでやってくるクリスマスに向けて、特に心の準備をしていきます。だれもがクリスマスを楽しみに待ちます。しかし、私たちが本当に待ち望むのは、私たちのこの世界が平和になることです。イエス・キリストが来られたのは地上に平和をもたらすためでした。世界中の人がもれなく幸せになってほしいと神さまが願われたからです。このように話をしている今、この時にも戦闘や殺戮が世界の中で続いています。預言者イザヤが言ったように、兵器を生産するのを止めて、今日一日の食物を得ることのできない人に十分な糧が行き届きますように。人々が手を取り合って生きるような国々になりますように。イエスさまが来られた意味をこの4週間心のうちに考えることができますように。そして私たちが「平和を作り出す」一人になれますように、特にこの期間、祈り求めましょう。


 
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