2020.04.05

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「キリストとともに歩む旅」

中村吉基

イザヤ書50,4-9マタイによる福音書21,1-11

 今日私たちは棕梠の主日の礼拝を久しぶりに教会の礼拝堂で捧げるはずでした。しかし新型コロナウイルス対策として、教会はなおしばらくの時、礼拝をはじめとする教会の諸集会を中止せざるを得なくなりました。けれども文書を通して、あるいは教会ホームページの音声を通して、皆さまとともに御言葉に聴いております。どうかこの時も神さまを仰いでいくことを忘れず、それぞれの場で礼拝を捧げられますようにと願います。

「おかえりなさい」

 私は今日、皆さんをこの言葉でお迎えしようと思っておりました。
私たちの人生には予測の付かないことがしばしば起こります。
「まさか」ということが起こるのです。それは神さましかご存じないことでもあります。
つい3か月前私たちは2020年という新しい年を始めました。その時に今日のような状況を誰が予測し得たのでしょうか。

 

「おかえりなさい」

 主イエスは「熱狂的」ともいうべき群衆に迎えいれられました。私は昨年来日した教皇フランシスコの東京ドームにおけるミサに招かれて参列しましたが、数時間待ったのち「パパモービル」といわれるオープンカーにのって現れた教皇を迎える群衆に、この主イエスの出来事を重ね合わせて見ていました。カトリック信者の方々にとって教皇の来日はまさに歓喜の出来事でした。これまで私が経験したどの礼拝よりも「熱」と「力」を感じました。

 主イエスがエルサレムに入城された時も、群衆は「熱」を帯びて迎えました。ご存知のように主イエスは首都エルサレムを拠点としていたわけではなく、ガリラヤ地方から来られたのです。にもかかわず、今か今かと主を待っていた人々の中には、「おかえりなさい」と叫んでいた人がいたように私には思えるのです。主のご来訪を待ちわびて、初対面の主に「おかえりなさい」と呼びかける姿は、おかしなことではなく自然なふるまいのような気もいたします。

 しかし、主イエスが小さなろばに乗ってエルサレム入城を果たした時、群衆はそれぞれの手にシュロやオリーブ、ナツメヤシなどの枝を持って、それを振りかざしたり、道に敷いたりして大歓迎をしました。けれども、1週間もしないうちにその熱狂的とも言うべき群衆は早くも心変わりをし、主イエスを十字架につけて殺してしまいます。単なる「熱」と「熱狂」は違うのです。人々は「叫んだ」とあります。この記事は4つの福音書すべてに記述のあるのですが、ヨハネによる福音書では「叫び続けた」とも記されているのです。人間の変わり身の早さを思い知らされるような出来事ですが、いよいよ主イエスの十字架への一歩が始まろうとしている日曜日のことでした。

 主イエスは誰かに捕らえられて引っ張って行かれるようにしてではなく、自ら十字架への道を歩まれます。この時の主イエスの中には不退転の決意があったと見てよいでしょう。主イエスはまず2人の弟子に頼みごとをします。

「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」(2,3節)。

 

なぜ子ろばが選ばれたのか

 いったい何をするために主イエスはろばを必要とされているのか、この時、2人の弟子たちには判らなかったことでしょう。しかし、主イエスの言葉はこれから何が起こるのかすべてご存知であったような確信に満ちた言葉でした。おそらく主イエスが仰せになる「向こうの村」に行けば、きっと主イエスの信奉者がいたのでしょう。そこに行ってろばを調達してきなさい、と言われたのです。なぜ主イエスがそのように弟子たちにお命じになったのか、そのことについて4節から記されています。

それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。

 ここには旧約聖書イザヤ書62章とゼカリア書9章の言葉が合わさって引用されています。つまり王である救い主キリストはろばに乗って現われると、いにしえの預言者たちによって告げられていたのです。しかし、王様が「子ろば」に乗っておいでになるとは、人々の心情からすれば、ちょっと期待はずれなのではないでしょうか。王であれば白馬にまたがって颯爽と登場しても良いのではないかと皆さんも思われないでしょうか。しかも弟子たちが連れてきたのは荷物を運ぶ手助けをする子どものろばでした。一方馬はイスラエルでは戦争のため、軍隊のために用いられていました。いわば〈権力のしるし〉とも言えるでしょうか。しかし、主イエスは馬に乗ってではなく、「主がお入用なのです」と言ったろばに乗ってエルサレムに入城されました。これは王であるキリストは武力を思いのままにする指導者ではないと言うことを表すものでした。キリストは見える権力を手にされるのではなく、また人々に威圧感を与えるような様相でもなく、預言者たちによって言われた「柔和な」王様でありました。「柔和」という言葉は今では聖書でしか聞かない言葉になったかもしれません。「優しく、穏やかな」と言ったらいいでしょうか。つまりろばに乗って来られる王は心の底から優しさと穏やかさをたたえ持って居られるお方なのです。立派な服を着て、高級車に乗ってくるわけでもなく、貧しく質素なお姿で主イエスはエルサレムに来られるのでした。こうしてイエスの仰せになった通りにろばと子ろばを引いて、弟子たちはイエスのところへと戻ってきました。

 

「主がお入用なのです」

 エルサレムは山の上にある街です。私もかつて訪れた際にオリーブ山から下りてくるところで、ろばを見ました。高低差の激しいところですから、荷物を運ぶためのろばは欠かせないものです。今日の箇所では主イエスがお乗りになったのはどちらのろばか分かりません。しかし、マルコによる福音書の記述では「子ろばに・・・お乗りになった」とあります。まだ一人前に仕事ができるかどうかわからないろばです。このろばからしてみれば「青天の霹靂」だったかもしれません。つながれていたろばが鎖から放たれて今、主イエスの前に立っているこの姿に、私たちの姿を重ね合わせてみることができます。私たちは普段の忙しさや自分の罪深さ、いろいろなしがらみに足を掬われて鎖につながれたような状態になっていると言えます。いろいろなものに取り巻かれすぎてしまって、自由に歩くことさえできないでいます。しかし、主イエスの一言によって、ろばは自由になりました。「主がお入用なのです」と言う弟子たちを通して伝えられた主イエスのみ心です。

「主がお入用なのです」。

 主イエスは私たちにも同様にお言葉をかけてくださっています。

 皆さんの一人ひとりの名前を呼んで、主イエスは「あなたは私にとって必要な人なのだ」と言ってくださいます。この光栄を見過ごしていてはならないでしょう。私たちは力なく、不器用で、目の前の問題を乗り越えることもできないかもしれません。しかし、主イエスは私たちを招いてくださいます。主イエスは福音を告げ知らせるための仲間として私たちを確かに必要とされておられます。「こんな破れのある自分でも?」と思うかもしれません。しかし、主イエスにはあなたという一人が「お入用」なのです。主イエスをお乗せし、その器として私たちは用いられるのです。また同様に私たちは隣り人を自分の背中に乗せることもできるのです。「縁の下の力持ち」がいなければ企業でも、学校でも、教会での存続していくことはできないでしょう。

 

私たちも主をお乗せして

 教会は組織ではありません。建物でもありません。教会に連なる私たち一人ひとりが「教会」そのものなのです。私たちは喜んで、あるいは光栄なこととして主イエスをそれぞれの背中にお乗せして歩んでいるでしょうか。私たちは常に主のいのちを身に帯びて歩んでいます。今私たちは先の見えないような毎日を過ごしています。しかし、そのような望みなき時にも主イエスを仰いで、主に従う旅を今日からご一緒に続けて参りましょう。

 


 
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