2020.06.14

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「遣わしてください」

中村吉基

出エジプト記19:1〜8前半マタイによる福音書9:35〜10:8

 福音書を読んでおりますと、主イエスのもとに群集が押し寄せて、押しつぶされそうになっていくという場面によくさしかかります。以前私は、日本でも有数の大教会(礼拝が400人ほどの出席者)の牧師をしておられた先生の家を訪ねたことがあります。もう既に隠退して、それでも1年の3分の2はどこかの教会での説教を引き受けられて、またその合間にたくさんの本を著したり、訳したりしてなお忙しい日々を過ごしておられます。しかし、この先生はご夫妻で口を揃えて私にこう言いました。「教会を辞めたら、すっかり気分が楽になった。牧会をしているときは教会員の一人ひとりのことが心配で気が気でならなかった」。私はその時まだ神学生でしたから牧師というものはこういうものなのか。誰にも言えない悩みも多いのだな、と思ったものでした。この先生の言葉を聴いたときに一匹の羊を見捨てることのない羊飼い主イエスの姿をこの先生と重ね合わせて見つめたものでした。

 現在コロナ禍の状況の中にありますが、代々木上原教会ではこのところホームページを見てくださる人の数が増えてきました。教会に届くメール、お便り、電話の数も増えております。何人かの方はインターネットを介して面談させていただきました。喜ばしいことです。たしかに聖霊の風が吹いてきている。そんな気がしています。そこで皆さんにお願いをしたいことは、この教会の宣教と牧会のために日々祈ってほしいのです。家にいるときにも、外にいるときにも教会のことを思い起こしてほしいのです。そして私は「牧会」というのは牧師の専任事項ではなくて皆で手を取り合って、チームプレーでやるものだと思っています。教会の一つ一つの事柄に皆で取り組む、そうして手探りで、手作りで教会の歴史は重ねられていくのだと思っています。

 そのような私たちに今日の福音が届けられました。37節の途中からです。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 主イエスの周囲には見捨てられて、倒れて、弱り果てている。ある人は貧しかったでしょう。病気の人もいたでしょう。仕事に明け暮れる人はまだしも、仕事にありつけないでいる人、羊飼いのいない羊のようにしている大勢の民衆を主イエスは見つめられて、心に深い悲しみを憶えられたのです。36節には

「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。

 もうどこから手をつけていいのか判らないほどたくさんの人々がいたんですね。それをご覧になった主イエスは「深く憐れまれた」。「あわれむ」愛とは、どんな愛だったでしょうか? 「はらわたがねじれるような愛」(スプランクニゾマイ)。でした。けれども私たちは正直言って、普段自分のはらわたのことなどを気にして生きてはいないと思うのです。でも、「はらわたが活気づけば心に喜びが生まれ、逆に狭くなったり、閉じたりすれば同情を欠き、他人に無関心になります」(雨宮慧)。私たちのはらわたは狭くなったり、閉じたりすることがたびたびありますが、けっしてそうはならないのが、神様や主イエスのはらわたではないか思うのです。

 35節を見ますと、主イエスはできうる限りの地域をご自分の足で駈けずり回って、神の国の福音の素晴らしさを伝えて、肩を落としている人には勇気づけて、持てる力を残すことなく尽くして病気や患いを癒していかれました。しかしながら、主イエスの助けを必要とする人の数はあまりにも多く、手に余るものでした。そこで主イエスは働き人を遣わしてくださるように願うように弟子たちに仰せになりました。それが先ほどの「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」という言葉でした。そして主イエスの宣教のパートナーとして12人の使徒が任命されたのです。

 ご存知のように主イエスには、病を癒し、悪霊を追い出す力が備わっていました。主イエスはその大切な任務を12人の使徒に託すことによって、言わばチームプレーによって、より多くの人々をそれぞれの苦しみから解き放ち、救い出されようとされました。また主イエスはただただ、12人をお選びになったのではありませんでした。イスラエルの部族の数は12部族でした。つまり主イエスは12人の使徒(リーダー)たちを立てて、新しいイスラエルのコミュニティーを作られることが根底にあったと言えます。

 さてその12人が選ばれて派遣される時になります。10章の5節から主イエスは弟子たちに「宣教の勧め」をします。

次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 今日の箇所はそのお奨めの途中のところで終わっておりますが、これは「諸注意事項」を言っているのではないのですが、やはり派遣される12人の使徒たちも見ず知らずの土地や人々のところに遣わされるのは心細いこともあるだろうし、知らないこともたくさんあっただろうと思います。

 私はこの10章の5節以下のところを読むときに心に引っかかる言葉があります。皆さんは引っかからないでしょうか? 世間で差別されていた徴税人マタイが主イエスに弟子として招かれる(マタイ9:9以下)。当時、ユダヤ人たちは自分たちの宗教を正当化し、他の神々を信仰する異邦人を「偶像崇拝者」と決め付けて、異邦人はおろか、異邦人と交わる仕事をしていた徴税人のような人たちを皆差別していた。しかし、主イエスはそういうことは一切度外視して徴税人のマタイを弟子として招かれたどころかマタイの家にまで行って食事を共にしています。そして今日の箇所で選ばれた使徒の中にマタイは入っています(10:3)。それなのに主イエスの言葉として5節「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」と言うのは矛盾するというか、なにか不可解な気がするのです。これは主イエスの言葉ではないとする聖書学者が大勢を占めています。つまりとても民族主義的な考えを持っていたユダヤ人のキリスト者の考えをここで反映させたものだろう。つまり主イエスの言葉に付加したものだというものです。

 確かにマルコやルカにもこの十二使徒を派遣した話はあるのですが、この言葉だけはマタイにしかありません。しかし、こうも読めるのです。「今は真っ先に苦しんでいる人、虐げられている人のいるイスラエルに目をやってそこに行きなさい」という純粋な主イエスのお命じになったことなのかもしれません。いずれにしても主イエスが異邦人を差別したりすることは考えられないのです。

 さて、私たち一人ひとりもこの現代において「使徒」として主イエスに招かれています。私の大好きな言葉に「心は神に、手は人に」という救世軍のモットーがございます。私たちは神様の手として、苦しんでいる人々に手を差し伸べ、神様の足として、孤独な人のもとに駆けつけ、神様の眼として、憐れみをもって一人の人を見つめることが求められています。皆がこういう信仰に立ってさまざまなところに出かけていかなければなりません。私が失業してしまうほど、牧師の仕事をどんどん取り上げて(!)までも、出かけていってほしいと思います。教会は社会の中に立っていますから、その社会からかけ離れて会員制クラブのように自己満足だけの信仰に終わっていたならば、それはカルト宗教ですし、教会としての生命を失ってしまうのです。

 救いを必要とする人は、私たちのすぐ近くにいるのです。気がついていないだけなのです。「収穫のために働き人を送ってください」と神様に祈るのと同時にこの私も働き人として「遣わしてください」とご一緒に祈りたいのです。


 
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