2021.04.11

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「どうしたら喜びが得られるのか」

中村吉基

イザヤ書 65:17〜25ヨハネによる福音書 20:19〜31

 皆さんは「仲間はずれ」にされたことはありますか?
その時、どんな気持ちがしましたか?
嬉しいとか、心地よい、と感じた人はまずいないのではないでしょうか。
嫌だ、悔しい、なぜ私が? そう思って当然でしょう。
そしてできることならば、そういう目に遭いたくはないでしょう。
今日の箇所のケースは少し違っています。

 主イエスが復活したとき、女のお弟子さんたちは勇敢でしたが、男の弟子たちはどこか遠くに逃げ去ってしまって、今日の箇所の19節にありますように、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。何と厳重なことでしょう。先生が殺されたのだから、きっと自分たちもそうなるに違いない、とひっそりと息をひそめて弟子たちはどこかの家に隠れていました。

 しかし主イエスは何でもお見通しです。あるいは主イエスの良く知っていた家なのかもしれません。いつものように彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と祝福を祈ります。それから20節です。主イエスが「手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」。弟子たちは主イエスの手、わき腹を見て、それが自分たちの愛する、親しい先生だと判るのです。そこにトマスという弟子は居合わせておりませんでした。どこへ行っていたのでしょう。家に隠れて、鍵を厳重にかけていたというのに、彼はそこにいなかったのです。食料の調達に行っていたのでしょうか。それとも主イエスのことが気になって引き返して亡骸を見に行っていたのでしょうか。たしかにそこにトマスの姿はなかったのです。

 主イエスを見て喜んだとここにも記されてあるくらいですから、その喜びは、書き記せない喜びであったでしょう。死んだはずの先生が復活されて、ふたたびみんなの前に姿を現したのです。もうそれはそれは、歌えや踊れではありませんけれど、喜びに満ち溢れたことでしょう。弟子の一人トマスがどこからか帰ってきたときには、その異様なほどまでの仲間たちの喜びようを目の当たりにしたことでしょう。

 皆さんにはこういう経験がありませんか。ちょっとその場に遅れて入っていったとき、なにやら楽しそうに、笑っていて、大騒ぎになっている。事情を知らないのは自分だけ、というような場合です。

 けれどもトマスの場合は、何となく悔しかった。仲間たちは主のお姿を見て、自分だけ見ることができなかった。なぜなのか。自分が悪いのか。運が悪いのか。間が悪いのか。自分だって主イエスのことを先生として、愛していたではないか。自暴自棄に陥っていったのです。ほかの弟子たちが「ほんとうだよ。先生にお会いしたんだよ」と言っても、心は頑なになるばかりで、何を言っても「主の御手に釘あとを見、この指をそこに差し入れ、この手を主のわき腹に差し入れてみなきゃ、信じるもんか」と言い張っています。もう手のつけようがありません。きっと彼は孤独を感じていたでしょう。本当は自分だって主イエスに会いたくて仕方がない、なぜ自分だけが会えなかったのか? もしかしたら主イエスが復活されたなんて嘘かもしれない、ほかの仲間たちの作り話かもしれない。自分を騙すためにした作り話……。そんなことが心の中、頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていたのです。

 人間だれにでも不公平なこと、不当なことが起こります。だれにでも例外なく起こります。それが人生です。自分の心が傷つくことがあるでしょう。もし皆さんがそうなった時に、苦しみや悲しみに打ちひしがれて、ひねくれてしまうのか、それともその苦しみや悲しみから這い上がって前へ前へと進むのか、それは皆さんにかかっているのです。

 どこで採った統計か知りませんが、現代人の7割の人が何かで怒っているのだそうです。考えてみれば恐ろしいことです。その怒りのぶつけようによって殺人や放火といった凶悪な犯罪にもつながるからです。そしてそれは発車のベルが鳴ってホームに駆け上がっていったけど、その電車には乗れなかった、というような軽い怒りではないのです。怒りっぽい人というのはいますけど、私たちはいつも怒りを口に出していたりするわけではありません。心の中に怒りを抱え込むということもあります。しかし、たとえ顔に表さなくても、心の中に怒りを抱えている人というのは、ぽろぽろと少しずつ自分の人生を蝕んでいっています。確実に崩壊する方向に走り出しています。どんなに小さな怒りであったとしてもそうです。怒りの矛先というのは間違いなく自分に向かってくるのです。怒りは私を貶めた人たちに向かうのでもなく、私たちをやめさせるような会社に突き刺さるのでもなく、私たちを差別するような人たちに落とされるものでもなく、必ず自分に返ってきます。

 神が与えてくださった人生、今というかけがえのない時を最高の状態で生きたいのならばどうしたらいいのでしょうか。主イエスは十字架の上から一つのことを教えてくださいました。主は自分を十字架にかけ、敵対していた人びとに向かって、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」ルカ23:34)と言われました。

 主イエスは私たちに「赦すこと」を教えてくださったのです。私たちは過去の痛みや、苦しみを捨てるのです。ひねくれたままでいてはいけないのです。皆さんはこれまでに人に裏切られたり、だしに使われたり、うそをつかれてきたかもしれません。そのことを今思い出すだけで、怒りがふつふつと沸いてくるとか、しょげ返ることもあるでしょう。しかし本当に私たちは心の中から健康になりたいのであれば、その心の中から怒りを一掃しなくてはなりません。もうすでに起こってしまったことに対して、いつまでもだれかを恨み続けていたならば、何にもなりません。22節の途中から読んでみましょう。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」

 私たちは神から与えられた今という時間を精一杯、素敵に、喜びにあふれて、楽しく生きることが求められています。もしそのような人生を手に入れたいのであれば、過去に戻ってやり直すことはできるでしょうか? 私たちにできることは過去ではなく、未来の中で何かができるのです。私たちは過去にこだわって何かをすることはできませんが、未来にはいくらだって人生を良い方向に持っていくことができるのです。

 さて、主イエスが復活されて8日が経ちました。弟子たちはあの家の中にまだいました。これは「過去」に生きている状態です。そこに主がふたたび現われました。今度はトマスもそこにいます。主は8日前と同じく真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」とあいさつをしました。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」27節)と主イエスが語りかけます。そこでトマスはそれが主だと判ったのです。

 しかしここで注目すべきは、トマスは手を伸ばして主の身体に触れてはいないのです。なぜでしょう? あれほどまでに言っていたのに。もうその必要はなかったからです。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。これは全幅の信頼を寄せている言葉です。世界で一番短い信仰の告白とも言えるでしょう。なぜ主の身体に触れて確かめていないのに、全幅の信頼を寄せられたのか。それは主イエスの方からトマスに直接言葉をおかけになられたからでした。トマスにとってそれは身に余ることでした。

 主イエスは今日、皆さん一人ひとりにも語りかけておられます。それは過去に生きるのではなく、「未来に生きなさい」という言葉です。私たちのいのちを造られた神は決して私たちの人生が怒りや恨みや妬みで充満して、私たちに人生が破綻することを望んではおられません。私たちは幸せで、充実し、喜びに満ちあふれた道を歩むことをだれにでも望んでいます。主イエスは手を差し伸べて、過去という泥沼にはまった私たちを引き上げてくださるお方です。どうか主イエスに身をゆだねて前進していきましょう。

 


 
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