2021.10.03

音声を聞く

「心と思いを一つにして」

中村吉基

創世記12:1〜3使徒言行録 4:32〜37

 使徒言行録は2000年前の最初の教会の記録です。しかし今日の箇所には「教会」という文字は見当たりません。教会という言葉が出てくるのは、このあとの5章になってからです。まだ発足したばかりの集まり、この箇所には「信じた人々の群れ」とあります。何を信じた人々か? 言うまでもありません。キリストです。神によって死者の中から復活させられたキリストのことです。ここで興味深いことが書かれています。

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」32節)。

 私たちはたくさんのものを所有しています。私たちは心のどこかで所有することによって安心を得ています。正確に言うならば安心感を保っています。自分の所有物によって自分を守ることができる。たとえばお金がたくさんあれば、自分には何だって手に入るような気にさえなります。ものをたくさん所有していることで自分が偉くなったような気持ちになります。しかしそれはそういう気になっているだけです。

 主イエスはある時こう言われました。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」(ルカ12:34)、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(同21)、主イエスは無意味な所有を戒められました。所有に励むことで神にも隣人にも心を向けず、もぬけの殻のような人間になることを良しとは思われませんでした。持っている人は偉くて、持っていない人はそうではない、そういう人間社会の価値観を徹底的に打ち壊そうとされました。

 2000年前の最初のキリスト者たちはそういう欲望から解放されていた人びとでした。個人的には「無所有」を是としていました。そして「心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」のでした。かたや21世紀のキリスト者である私たちは、自分のものが一つでも無くなると心配になります。同じキリスト者でありながら、なぜこんな違いが出てくるのでしょう。その答えが今日の箇所に書かれています。

「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」33節)。

 「信じた者たちの群れ」のリーダーは主イエスが直接お選びになった使徒と呼ばれる弟子たちでした。この使徒たちは「大いなる力をもって主イエスの復活を証しし」たのです。では「大いなる力」とはいったいどんな力だったのでしょう。4章30,31節には信者たちが祈りをささげてこう言っています。「御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。

 「大いなる力」とは神の恵みです。そしてここで使われている「力」とは「デュナミス」という言葉です。これは「ダイナマイト」の語源になっている言葉ですが、私たちの中で神の恵みがダイナマイトのように炸裂する。私たちが経験したことがないような力です。ではお尋ねしますが私たちはダイナマイトのような「大いなる力」を求めて祈ったことがあるでしょうか。最初のキリスト者には与えられて、現代のキリスト者には与えられない恵みではありません。私たちは心してこの大いなる恵みを求める必要があるでしょう。神はその時私たちに「大いなる力」を授けてくださいます。そしてその力を受けた使徒たちが復活の主イエスのことを宣べ伝えます。

 ここで注目したいのは十字架の「死」ではなく、復活の「いのち」を伝えているのです。これはパウロがコリントの信徒への手紙1でユーカリストについて書いていまして、そこには「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と記したのとは対照的な表現です。そして私たちの聖書ではその使徒たちが「人々から非常に好意を持たれていた」と訳されていますが、いくつかの聖書を見てみますと「大いなる恵みが彼ら一同の上にあった」(荒井訳)、「大いなる喜びが彼ら全員の上にあった」(田川訳)と大いにニュアンスを変えています。これはこのあとの「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」という言葉と結びつけて理解したほうが良いでしょう。大いなる恵み、大いなる喜びがみんなを包んでいた。なぜなら信者の中には一人として貧しい者がいなかったから。旧約聖書の申命記15:4に「貧しい者はいなくなる」と神が約束してくださったことがここで実現したのです。

 この最初のキリスト者たちは「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配された」とあります。ここを読むと最初のキリスト者たち、最初の教会は共同生活をしていたことがわかります。私たちの記憶にはどうしても1990年代に引き起こされたカルト教団の事件、そこで明るみになった信者たちの共同生活のことなどが頭によぎるのではないでしょうか。

 私たち人間はひとたび所有をしてしまうとそういう危険を犯してしまう弱さを持っています。これは忘れてはいけないことです。しかし今日の箇所をそういう目で読むのではなく、教会のみんなが献金したものは、おのおのに分配され、一人として貧しい者がいなかった、つまり皆本当の意味で豊かにされていたという事実に注目したいのです。最初のキリスト者は特別に裕福な階層に属する人びとではありませんでした。むしろその逆であったでしょう。豊かではない人が、しかしあえてもっと貧しく、困窮している人たちのために喜んで献金したのです。

 皆さんは何かを「ささげなさい」と言われたら、自分の中で必要ではないものを差し出すとか、余裕があったならその一部をささげているのではないでしょうか。今朝、皆さん一人ひとり、自分のことに照らし合わせて考えてください。自分がいちばん大切なものからささげられるでしょうか。神はご自分の独り子主イエスをこの世界のために差し出されました。親が自分の子を差し出す、犠牲にすることはなんとむごい、心が切り刻まれるようなことでしょうか。

 最初のキリスト者はその神の模範に倣って、神の愛を実現していたことが今日の箇所から私たちが知ることです。これは誰かに強制されてやっていたわけではありません。自分の前に困っている人、悲しんでいる人、病んでいたり、しょうがいを負っていて働くことができない人、そういう人が目の前にいた時に自然に愛の行いをすることができたのです。皆さんは相手の心を敏感に察知して、愛の行動をすることができるでしょうか。最初のキリスト者、最初の教会にはそういう神の愛が満ち溢れていました。私たち一人ひとりも、私たちの教会もそれに続くものでありたいと願います。

 今日は世界宣教の日、世界聖餐日です。日本キリスト教団は今、世界14か国に16人の宣教師を派遣し、また6つの教会と関係を持っています。反対に海外の諸教会から教団の教会、関係学校などに派遣されている宣教師が64名、私たちの教会にもD.Umipig-Julian先生が派遣されています。また廣石望先生は教団のスイス協約委員会で長年ご奉仕くださっています。ここにも神の愛が行われています。そして世界聖餐日はこうしたすべての国々にあるキリストの教会が連帯して、今日の礼拝で聖餐を行いますが、これは私たちの教会もまた世界の教会に連なる一員であることを喜び、また2000年前のキリスト者たちの信仰を今ここで継承していることを感謝しつつ、行われるものです。そして教会に連なる私たち一人一人が神の愛を行う者に変えられるようにこの礼拝で祈っていきましょう。


 
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