2022.03.13

音声を聞く

「これに聞け――神は今ここにおられる」

中村吉基

創世記15:5-12,17-18ルカによる福音書 9:28〜36

 アウシュビッツの強制収容所の経験をしたエリ・ヴィーゼルというルーマニア(当時はハンガリー)出身で、アメリカで活躍したユダヤ人作家がいます。彼の小説「夜」にはナチス親衛隊による収容所での子どもの処刑の場面が次のように描かれています。

「三人の死刑囚は、いっしょにそれぞれの椅子に登った。・・・『自由万歳!』と二人の大人は叫んだ。子供はというと、黙っていた。『神さまはどこだ、どこにおられるのだ。』わたしのうしろで誰かがそう尋ねた。・・・二人の大人はもう生きてはいなかった。・・・そしてわたしたちは、彼をまっこうからみつめなければならなかった。・・・わたしの後ろでさっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。『いったい、神はどこにおられるのだ。』そして私は、私の心の中で、ある声がその男にこう答えているのを感じた。『どこだって。ここにおられる・・・ここに、この絞首台に吊るされておられる・・・・・。』」

 神は私たちに語りかけられるお方です。神の声など、ちっとも聴こえないという人がおられるかもしれません。時に神は囁かれるような静かな声で皆さんに語られることもあります。私たちは今、受難節を旅しています。キリスト教国では「レンテン・ジャーニー」と言うそうです。今この受難節だけでなく、私たちは常に静かに神のみ声を聴く必要があります。

 今日の礼拝への招きの言葉は、詩編46編10節(口語訳)「静まって、わたしこそ神であることを知れ」というものでした。私たちは毎日の忙しさや自分の心や耳に入ってくる「神以外の声」にいっぱいいっぱいになってしまって、せっかくの神の語りかけを無視してしまっていないでしょうか。その「いっぱいいっぱい」をせめて「いっぱい」くらいにしなければ神の声は聴こえてこないのです! また私たちの周りには偽者の神があらゆるところにはびこっています。私たちはその偽者に簡単に翻弄されてしまいます。今日神は皆さんに「わたしこそ神であることを知れ」と仰せになります。神の声は礼拝の中で、あるいは聖書の言葉を通して、また日常のさまざまな出来事を通して語られます。冒頭でホロコーストの被害に遭った子どもが「いったい、神はどこにおられるのか」という声を聴きます。自分の心の叫びであったのかもしれません。その叫びに「ここにおられる・・・ここに、この絞首台に吊るされておられる・・・・・」との語りかけがなされるのです。

 私たちは神の子どもとされました(ヨハネ1:12)。親である神はわたし達一人ひとりを大切に思われ、今日も語りかけておられます。誰でもこの語りかけがなければ神の愛を知ることはありません、もちろん神を信じることもないわけですし、神の力である聖霊を与えられて生きるということもないのです。この神のさまざまな形での語りかけをキリスト教では「啓示」と言います。文字通り神が私たちに啓(ひら)いて示してくださることを指します。神は私たちにイエス・キリストを通して愛を示してくださったのです。

 神と主イエスはいつも一致して生きておられましたから、主イエスの生涯にわたる言動や行動は、神の言動や行動であり、十字架の死に至るまで神のみこころをなされたのです。言ってみれば主イエスは神の愛の実現されたお姿です。主イエスに出会った人は誰でも神に出会ったのであり、主イエスの示された愛はイコール神の愛なのです。

 啓示は一方的に神から人間に与えられるものです。何かをすれば与えられるといった条件的なものでもなく、特別な人だけに与えられるものでもありません。すべての人に啓かれ、示されるものです。今日の聖書の箇所は主イエスの「変容」(変貌)の出来事を伝えます。それによれば28節は「この話をしてから8日ほどたったとき」と27節までの記事と繋ぎ合わせるような言葉が置かれています。それではその前の記事には何が書かれているかと言いますと、主イエスが弟子たちに向かってご自分がエルサレムで敵対者たちの手にかかり、捕らえられて多くの苦難を受けたのちに殺されること、そして3日ののちに復活をされることをはっきりとお話しになりました。

 主イエスを信じてここまでついてきた弟子たちにとってみれば、大きなショックでしたし、思いもかけないことでしたから、戸惑ったり、落胆したのは当然だったでしょう。いつまでも重くどんよりとした雲のようなものが弟子たちの心にのしかかっていたときに今日の箇所に書かれてある出来事が起こりました。暗い気持ちになっていた弟子たちを主イエスはその中から3人の弟子たちを連れて山に登り、祈られました。

 主イエスも神のみ声を聴くためにいつも山に登って祈る習慣がありました。その時に、また思いもかけないことが起こりました。主イエスのみ姿が光り輝き、旧約の預言者モーセとエリヤが現れて、共に語り合うのです。それを3人の弟子たちは目の当たりにしてどうだったのかというと、その一人であるペトロは今までに味わったことのない幸福感に満たされたのです。

 そして33節のところに「自分でも何を言っているのか、分からなかった」とありますけれど、とにかく主イエスが十字架で死なれるなどと言わないで、この幸福感がいつまでも続いてほしいと願って、主イエスとモーセとエリヤを記念して仮小屋を三つ建てましょうと提案するのです(33節)。この変容の出来事はマルコやマタイの福音書にも記されていますが、どこを読んでもとても不思議な感じのする箇所です。

 しかし、この記事にはとても大切なことが隠されています。それは主イエスが十字架上で殺されて、それですべてが終わりになってしまうということではない、ということです。苦難も死も超えてお甦りになられる。その栄光のみ姿を今、ここで啓いて、示してくださったのが、この変容の出来事です。この世の悪と死からキリストが超越された姿を啓示されたのです。

 そして神は言われます。35節「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。イエス・キリストの存在、そして神の栄光がすべてのものに勝利したことを示す神の言葉です。この神の栄光は、私たちがどんな絶望の淵にあっても、苦しみ困難な中でも起き上がることの出来る光です。

 私たちの人生にはいろいろなことが起こってきます。苦しいこと、悲しいこと、病気であったり、試練であったり、さまざまなことが待ち受けています。そしてそのことが原因で、落ち込んだり、気弱になったりすることもあります。しかし、それは一時的なものに過ぎません。ペトロの手紙第二の3章8節の言葉です。

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。

 いつまでも私たちがそのような苦しみに置かれることはないのです。必ずその暗闇に光が差し込みます。それは神の光です。不謹慎かもしれませんが今日の箇所でもうペトロがうっとりとしてしまうような大きく明るい光がきっと差し込んでくるはずです。

 神は今日も皆さん一人ひとりに語りかけられます。神の言葉が皆さんの中の隅々に、また皆さんの生きている場の隅々に、そして皆さんに関わる人びとの心の隅々に行きわたるように、神は願っておられるのです。そして神は私たち一人ひとりを子どもとして愛してくださり、また「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」とイエス・キリストと共に歩む生活へと皆さんを招いておられるのです。


 
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